盛岡駅で特急列車に乗り換えた桜木は、午後四時半頃に秋田駅に到着した。目的地はそこから更に鈍行列車に乗り換え一時間ほどである。が、ここであるトラブルが起きた。
彼が乗るつもりだった奥羽本線が架線支障により運転を見合わせており、再開の目途が立っていないというのだ。対応にあたった駅員は桜木を観光客――それにしては余りに軽装であるが――と判断したのか、心底申し訳ないというように眉を下げ、迎えを呼ぶか、さもなくば宿泊先のキャンセルと秋田での一泊を勧めてくれた。
「明日にはきっと復旧しますが、今日のところは何とも……」
そう言いながら、駅員は駅長室の透明板越しに周辺の地図を開いてみせる。彼は白い手袋の指先で駅の位置を示してから、その指をすーっと真横にすべらせた。
「ここが駅西口。で、この大通りを美術館の方へ真っ直ぐ行くんですね、そこから旭川を渡ってずーっと行くと、山王大通りって通りがあります。この辺りはホテルが集まってるから、当日でも駆け込めば空きが見つかるはずですよ」
駅員の親切は有難いが、先立つものはそう多くない。こりゃ駅のベンチで野宿かな、と話を聞きながら考えていた桜木だが、その耳に聞き覚えのある音が触れ、彼は駅員の示す方を見た。注意深い声でゆっくりと話す彼の指の下に、見覚えのある文字が並んでいた。
「ヤマオー……」
「え?」
「おっちゃん、ここ、ヤマオーがあんのか?」
「そでねぐ――あ、ヤマオウじゃなく、サンノウって読むんですよ。八橋の山王さんが由来でしてね、」
「そのサンノーって、バスケがつえーって有名なサンノーもある? ん? これか?」
駅員の指の示すすぐ傍に、秋田県立山王工業高校の文字を見付け、桜木は喜んだ。これで見ず知らずの土地で秋風に晒されながら野宿するのは避けられそうだ。
「ええ、その山王ならここに。お客さん、バスケットお好きなんですか? やあ、インターハイは残念だったけど、今は皆ウィンターカップに向けて頑張ってますよ」
「ん、大好きだ」桜木は答え、そして続ける。「そーかあ。有名なんだな、サンノーって」
〝最強・山王〟。そう渾名されるにふさわしい彼らの実力やその人気のほどは、あの夏の日の会場で身を以て知っていたが、秋田の地に立ってその地に住む人々の日常の中で彼らの名を聞くと、また違った実感が湧く。
「そりゃあね。この辺りの皆が応援してるんですよ。あの子らは自分らの自慢だ、って」
唇の端に小さな皺を刻んで駅員は目を細める。桜木は束の間その表情に見入った。駅員の顔が、ただ地元のこどもについて語るときのそれとは思えないほど大らかで優しく柔らかいように彼には感じられたのだ。桜木はふと、入院中足しげく通ってくれた監督の妻の顔を思い出した。或いは親友の両親の顔や顧問である鈴木、肩を怒らせ課題と共に病室にやってきた担任の顔を。その日そのときによって彼らの表情は様々だったけれど、大人たちはいつだって目の前の駅員のように穏やかな眼差しで桜木を見ていた。
「ここに知り合いがいるんだ。助かった」
彼らのことを思い出すと、自然と声は明るくなった。駅員も、それはよかった、と同じく明るい声で返した。
「ありがとな、おっちゃん! 西口ってあっち?」
「ええ。気を付けて。よい旅を」
微笑む彼に見送られ、桜木は西口出口へと向かう。もうすっかりよくなった背中に駅員の視線が触れ、くすぐったいような気持ちになった。
夕刻を前に、街は少しずつ夜を迎える支度を始めている。駅を出て広場を見渡した桜木は、正面にある周辺案内板ではなく、大通りに灯る外灯の光を頼りに美術館の方へと歩き始めた。
秋田の風は神奈川よりも強く、尖っている。初めての地に降り立って、彼は強くそれを意識した。街の景色は都会的で、通りはよく整備されバスやタクシーの数も多い。駅前だからか土産物屋も多く、そういうところは神奈川とよく似ていたが、秋を押し流し冬を連れてくるような風の冷たさが、この地は知らない場所だと桜木に教えているようだった。その風に背中を軽く押されながら、彼は大通りを真っ直ぐ歩いていった。
お濠を横目に五分ほど歩いてゆくと、県立美術館の表示を見付けた。そこから更に五分ほど歩く。と、濠とは違う、水の流れる音が聞こえてきた。ほとんど勘を頼りにして歩いていたが、どうやら道は正しかったようだ。
橋を渡ると街の景色も変わる。余所行きのような都会の様相から、生活に根差した場に。風が醤油の焦げる匂いを運んでくる。うなぎ屋がすぐ傍にあるようだった。それから人々の賑わいや店先のラジオの音。今朝まで入院していた桜木にとって、街の雑多なにおいや音は懐かしく、また好ましい。自然ゆったりとした彼の歩みを、背後から走ってきた部活動の集団が追い抜いてゆく。
「……ん?」
うっすらとした闇の中通り過ぎていった少年たちのシルエット。その中のいくつかに見覚えのある姿があった。先頭を走る男の短く剃った頭、盛り上がった肩の筋肉、厚い背中。間違いない。彼は――、
「――丸ゴリ!」
桜木は思わず声を上げた。三〇名ほどの集団とは既にある程度の距離があったが、呼び掛けられた青年の耳に声は届いたようで、彼は立ち止まり、桜木の方を振り向いた。
「ン……赤坊主でねか!」
呼び掛けられ声を上げた男はやはり、河田雅史であった。山王工業高校三年、背番号七。今は白い部活Tシャツと淡い水色のジャージズボンという姿をしている彼は、濡れた額を同じく濡れた腕で拭いながら他の部員たちに声を掛け、それから桜木の方へ近付いてきた。袖を捲り上げた肩の表面から湯気が上がっている。随分長いこと走り込んでいるようだ。
彼は桜木の全身を視界に収めながら
「おめ、背中はもうええのが?」
と尋ねた。第一声から心配を寄せられた桜木は、くすぐったさに肩をすくめながら、河田たちを大いに安心させる声で、
「おうよ!」
と答え、拳を握ってみせた。その言葉と笑顔に河田も笑顔で頷いた。
「はは。そうか! おめ、何でこんただとこへ?」
河田が返す。桜木は長袖のTシャツにスタジアムジャンパーとジーンズという、極めて軽い装いであったから、河田がそう尋ねるのも無理はなかった。しかも手にしているのはバスケットボールのみ。まるで神奈川からバスケットコートを探しにきたみたいな格好だ。ボールとカセットウォークマン、財布と家の鍵。これが退院早々秋田の地を訪れた桜木の手荷物の全てだ。
「いやな、ちょっと野暮用があってこっち来たんだが、途中で電車が止まっちまってな。今日泊まるとこがねーんだ」
桜木がけろりと言い放った言葉に、河田はつぶらな目を見開いて驚いた顔をした。後ろでふたりの話を聞いていた部員たちも、同じように言葉を失っている。
「おめ……」
河田は桜木に向け何か言おうと口を開けたが、その唇を不意に閉ざし、代わりに後ろにいる部員たちの中から
「イチノ、」
とひとりを呼んだ。呼ばれた青年が集団の中から一歩進み出る。
「何、河田」
「おめ、赤坊主連れて歩いて学校さ戻ってけれ。俺らは先戻って、監督と深津にこのことさ伝えとく」
「わかった」
「また後でな。赤坊主。おめは運が強えわ」
「へへ。そうみたいだ」
河田はそう言って、部員たちを連れてランニングへと戻っていった。
「よろしくな、イチノ君」
「…………」
ふたりは歩き出した。
河田にイチノと呼ばれた青年は一之倉聡。背番号八番。河田と同じ三年生だ。名前も背番号も学年も桜木は憶えていなかったが、彼の姿と前半戦の猛烈なディフェンスはよく憶えていた。
「背中、よくなってよかった」
「ん? ああ、ありがとな」
彼もまた、河田と同じように桜木の背中のことを憶えていたようだった。平坦な声は無駄な装飾がなく朴訥としているが、それは機嫌の良し悪しというより、元々の彼の性質のようで、緊張や人見知りとは無縁のリラックスした様子は知らない地でひとり浮足立った桜木の心も落ち着かせてくれた。
「そういや、あいつはいねーの? 主将のピョン吉」
「深津は一陣で走ってるから。俺らは三陣。一斉に走ると邪魔になる人数がいるからね。……河田はリーダーだから俺で悪いけど、二〇分我慢してね」
桜木のつけた――言い出したのは宮城だが――失礼なあだ名は一之倉に問題なく通じたが、特に突っ込みが入らないことが逆に面白くて彼はひっそりと笑った。――泰然自若。一之倉を表すのにこれ以上ふさわしい言葉はないだろう。
「いや、こっちこそワリーな。部活中のところを」
「別に。俺も休めて丁度よかったから」
「ぬ。やはりヤマオーといえど走り込みは嫌いなようだな」
「そりゃあね。うちの練習、あの河田だって逃げ出してるくらいだよ」
「なにっ⁉ 丸ゴリがか⁉」
「うん。深津も松本も野辺も、皆」
「……ちなみにイチノくんは?」
桜木は首を傾け尋ねてみたが、返ってくる言葉は何となく予想がついた。
「俺はない」
「やっぱり! あ、だから丸ゴリに指名されてたんだな?」
「他じゃサボりと思われるからね」
それはきっと一之倉にとっても誇らしいことなのだろう。切れ長の目の端が僅かに柔らかくなったように見え、桜木も嬉しくなった。不意にふたりの目が合って、何となく和やかな雰囲気になる。すると、
「あら、今日もお疲れ様ね」
「……こんにちは」
通りがかりの誰かが、一之倉に声を掛けた。ちょうど彼らの母親くらいの年齢の女性だ。部員の保護者かもしれない。一之倉は軽く頭を下げた。桜木も彼に倣い同じようにする。
「寒くなってきたからね、ちゃんと汗拭いてね」
「はい」
一之倉の丁寧な声の返答に、女性は笑顔を一層深めた。彼女は隣に立つ桜木にも笑顔のお裾分けをし、へばね、と言って去っていった。じゃあね、というような意味だろう。
それからの道のりも、彼はことあるごとに街の人々から声を掛けられ、その度にふたりは会話を中断して頭を下げた。聞くと、皆顔見知りという程度で、名前を知る者はひとりもいないという。
「大変だな、ツラが割れてるっつーのは」
「ツラって……。でも色々とおまけしてもらえるからね、無下にはできない」
四人目に声を掛けてきた女性がくれた飴玉を分け合いながらふたりは歩く。商店街を抜けた辺りから人通りは少なくなってきたから、もうすれ違う人もいない。民家のコンクリートの塀の上を三毛猫が駆けていった。
「週末遊びに行った帰りとかは有難いよ。焼き鳥屋の前を通るときは皆帽子を脱いで通るんだ」
「はは。坊主頭がトレードマークって?」
「そう。……君は随分髪が伸びたね」
そういえば、と何てことない風に一之倉は言った。敗北の禊のために剃った頭は確かにもう随分長く伸び、坊主とは呼べないほどになっている。眉に掛かる前髪の毛先をつまみ上げ、桜木は、そうなんだよ、と首肯した。
「今朝退院してそのまま来たから、ガッコ戻る前に剃らねーとなあ」
「今朝退院したの⁉」
桜木の返答に、泰然自若の一之倉もさすがに驚いたようだ。今度は桜木の方がこともなげに返す。
「おうよ」
「何でまたそんな……」
「ん? ちょっとな、」
桜木は不意に言葉を切ったが、一之倉も返答を期待しての発言ではなかったようで、特に気にすることなく、
「ああ、着いたよ」
と桜木に言った。着いたのは学校の正門ではなく裏門側であったらしく、体育館が校舎の影に遮られることなく薄闇を煌々と照らしている。と、ふたりの視線の先、校門の前に山王工業高校バスケットボール部監督である堂本五郎が腕を組んで立っているのが見えた。
「……本当に来た」
堂本は驚きを隠さない目で桜木の全身を見渡してから、やはり河田たちと同じように
「背中はもういいんだな」
と言った。桜木は声を立てて笑った。皆は体育館に向かった。
堂本が声を掛けると、隣に立っていた眼鏡のマネージャーが、
「四五分まで休憩ー!」
と部員たちに号令をかけた。丁度いいタイミングだったのだろう。桜木の来訪に合わせるように、練習は一〇分間の休憩となった。ボールを打つ音が止み、少年たちはコートの外に散る。河田と深津のふたりがタオルとドリンクボトルを手に堂本と桜木の元へとやってくる。他の見知った顔たちも、何となく桜木たちの近くに集まった。
「河田から軽く話は聞いたが、さすがに外部の生徒を寮に泊まらせる訳にはいかんな……」
どうしたものか、と堂本は特徴的な口髭に手を当てながら言う。
「俺は独居だが、布団が一組しかないし……」
「ゴローと一緒に寝んのはなあ」
「ゴ、ゴロー……」
「ぶっ」
ふたりのやり取りに河田は噴き出し、深津は顔を逸らす。部員たちが監督を陰で五郎と呼んでいるというのは、道中一之倉が世間話として聞かせてくれたことだった。
「行き先は?」
堂本が目を伏せ頬を微かに赤くしながら言う。桜木は思い出すように上を見て、
「えーっと、ノシロの方っつったかな」
と答えた。深津が返す。
「とすると、車で一時間くらいピニョン」
「ん? ピョン吉、語尾変えたんか?」
「ピョンはもう古いピニョン。今はこれが最先端だピニョン」
「そうなんか。おめー、あだ名付けづれーなあ。どうすっかなあ」
「赤坊主、」
河田が桜木を呼ぶ。集中しろ、ということだ。後ろでは野辺が苦笑し、松本が呆れている。堂本が口を開いた。
「桜木君、もし君さえよかったらだが、部活後でよければ車で送っていこうか?」
監督の破格の提案に、桜木は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「んー、でもそうすると向こうで泊まりになっちまうよなあ」
「駄目なのか?」
「そーゆー感じじゃねーんだ」
「そうか……」
堂本と桜木はそれぞれ腕を組み考え込む。すると、今度は河田が
「ならうちに泊まるか?」
と申し出た。今度の提案には、桜木も表情をパッと明るくした。
「いーのか⁉」
「おう。何だ、今更遠慮して」
鷹揚に頷く河田に、隣から深津が口を挟む。
「ずるいピニョン。俺もまきこのご飯食べたいピニョン」
「人んちの母ちゃん呼び捨てにすんな。……うちならこっから車で三〇分くれだから、今から連絡すりゃ来てもらえるだろ。どうだ?」
河田が言う。前半の台詞は深津に向けて、後半は桜木に向けてだ。桜木は勿論頷いた。河田とはただ一度試合で関わったのみだが、彼なら頼りにしたり甘えたりしても大丈夫だろうという野生の勘めいた確信があった。
「助かったぜ! 丸ゴリ‼」
深津は未だ納得いかないのかしつこく食い下がる。
「じゃあ河田が寮に残って、俺と桜木で河田家に泊まるピニョン」
「何でだよ。――監督、俺、家さ連絡してきます。寮にも」
「ああ。分かった」
「赤坊主、よかったな。河田家のメシは旨いぞ」
河田が電話をしにその場を離れると、一件落着、と他の部員たちがにこにこ顔で集まってきた。桜木とリバウンド対決を繰り広げた野辺将広が明るい目で彼を見下ろしている。
「ポール、」
「誰がポールだ」
「よく言うべ。何だかんだ結構気に入ってるくせに」
後ろから顔を覗かせ彼に笑いかけるのは、背番号九番の松本稔だ。隣で一之倉も、
「ポール・マッカートニーみたいって言ってたよな」
と松本に加勢した。野辺は頬を染め言葉を詰まらせた。そこに一年生の河田美紀男が近付いてきて桜木に話し掛ける。
「桜木君、久し振り。身体の調子はどう?」
「おお、丸男。ばっちりだぜ。選抜までには完全復帰してみせっから、そしたらまた勝負しような」
桜木は強気の顔で答えた。先のことを虚勢ではなく必ずそうしてみせるという決意で語る彼の言葉を、関わった者たちは皆、こいつならきっと実現してみせるだろう、という心持で聞く。それくらい、試合中に見せた彼の身体能力は飛び抜けたものがあった。桜木の言葉につられるように、美紀男も眩しい顔で頷く。
「うん!」
辺り一面を照らす無垢な笑顔に、周りにいる部員たちも笑顔になる。堂本も微かに頬を緩めた。が、しかし彼は監督として、そしてこの場にいる唯一の大人として、
「とはいえ、無理な練習は禁物だぞ、桜木君」
と言葉を添えることも忘れなかった。彼は周囲に視線を巡らせて、言葉を部員たちにも広げてみせた。
「お前たちも、よく憶えておきなさい。バスケットが好きで続けたいなら、自分を大切にすること。心と身体を丁寧に扱うこと」
「――ハイッ!」
言葉をしっかりと受け止める部員たちの曇りのない声を聞いて堂本は頷く。姿勢を正す彼らに向けて、堂本は念を押すように続けた。
「怪我をしたら、試合は続けさせない。それでチームが勝っても負けても。――お前たちの代わりはいない。怪我をしないよう努めなさい」
「ハイッ‼」
二度目の返事はより澄んで力強い。堂本は微笑んだ。部員たちも彼に倣った。すると、
「桜木、返事ピニョン」
と深津が言った。突然水を向けられて桜木は驚いた。が、輪を開かれて手招きを受けることに、勿論悪い気はしない。彼は胸を膨らませながら答えた。
「おうよ!」
桜木の返事をしっかりと聞き届けてからマネージャーは時計を見遣り
「さあ、練習再開だ!」
と手を叩いた。
