熱気に満ちた体育館に、下校時刻を知らせるチャイムの音が響く。ボールを両手に堂本の隣で見学に集中していた桜木は、そこでようやく意識をコートから引き離した。先ほどと同じように、監督が隣に座るマネージャーに呟くような声で何か伝える。マネージャーは体育館に響き渡る大声で部員たちに練習の終了を告げた。
「――どうだったね、うちの練習は」
三々五々コートから散ってゆくこどもたちを見ながら堂本が桜木に尋ねる。桜木は心に浮かんだものを正しく表現する言葉を探すためにしばし黙った。
「……何か、静かだったな」
「ほう?」堂本が続きを促す。
「よその練習見たの俺初めてだったけど、全然ちげー。俺らのが人数少ねーけど、もっとうるせー」
「それは何故だと思う?」
堂本はしつこく食い下がる。彼は練習中も何度となく、左隣に座っている桜木に、今のはどういうことか分かるか? と尋ねた。夏の日の試合中、ここに座ってプレイを見ろ、と言った安西と同じように。桜木に必要なのは経験と知識だ。それを彼もよく知っていた。
「……誰もふざけたりしねえしケンカもしねえ。……それと、指導がねえ」
「何故指導をしない?」
堂本は惜しみなくその知識を桜木に与えた。そうすることが高校バスケットボールというもの全体を押し上げるのだと固く信じているのだ。
「失敗しねーから……そーだ、俺も前シュート合宿したときそうだった。できるようになってきたら小言が減って、そうすっと練習も中断しなくなった」
「そう。ここではできることが当たり前なんだ。だから練習は、できるようになることが目的じゃない。目的は人それぞれだが、君の場合は……そうだな、野辺にでも聞いてみるといい。シュート練習中何を見てる? ってな」
「ポール?」
「ふ、そう。ポールに」
「行ってくる!」
桜木はボールを片手に立ち上がり、野辺の方へと向かった。集団の中で頭ひとつ飛び出た彼は、一〇〇名近い部員たちの中でも見つけるのが簡単だ。
「なあ、ポール。ポールはシュート練してるとき何見てる?」
「ああ? 何だ突然」
「いーから教えろよ」
他のメンバーと共にボールやコーンの片付けをしている野辺を捕まえて聞く。彼もまた、ライバルだからと秘密にするようなこともなく、
「んー、皆の癖とか、ゴールからの位置だな。外れたときはボールがどこに落ちるか」
と教えてくれた。彼はリバウンダーとして、どの位置・角度から放たれたボールがどこに落ちるのかを研究しているのだという。これは桜木にとって目から鱗の話であった。
「赤坊主、おめ、まだ練習できねえなら、今のことしっかり覚えておけ」
河田が手にしたモップを桜木に手渡しながら言う。彼は真面目な顔で頷き受け取った。今このときの桜木には分からぬことだが、彼らの教えは確かに、部活復帰後の桜木を支え援ける大切な芯となった。
片付けも粗方終わろうかという頃。換気のために開け放った体育館の鉄扉の向こうから車のヘッドライトの光が差し込んできて、部員の濡れたシャツを照らした。どうやら迎えが来たようだ。
「河田の母ちゃんだ!」
部員のひとりが声を上げる。ライトよりも明るい声が体育館の高い天井にぶつかる。
「こんばんは。お疲れ様ね、みんな」
「おばさん! こんばんは!」
「お疲れ様です‼」
鉄扉の向こうから現れたのは、美紀男の面差しによく似た、柔和な雰囲気の女性だった。部員たちが一斉に声を上げ、彼女の元へと駆け足で集ってゆく。雅史と美紀男の兄弟は大きい身体をちょっと縮めて、後ろから彼らについていった。
「みんなもお疲れ様。わあ、すごい汗。風邪さひかないようにね」
彼女はパンパンに膨れたビニール袋を深津に手渡しながら言った。後ろから河田が、
「まだあんだろ、母ちゃん。持ってくっべ」
と進み出て鉄扉を抜けていった。
「あっ、兄ちゃん俺も……」
美紀男が兄の後を追う。と、彼の背を松本が叩いて引き止め笑顔で言った。
「俺が運ぶから、美紀男はお母さんと一緒にいろ。せっかく会えたんだ」
「松本さぁん。ありがとうございます!」
美紀男の返事を聞いて、松本は外へ出て脇に停めてある車の方へと向かった。
「河田、手伝うよ」
「わりぃな。お、母ちゃん、作れねえからって随分買い込んできたな」
「はは。お母さんのおはぎさ食えねえのは残念だけど、ポカリはいくらあってもいいもんだべな」
体育館の隅では、河田の母が監督である堂本に挨拶している。美紀男も母が持ってきた新しい靴下とセーターを受け取ってにこにこ顔だ。
「いつもすみません」
「いいえぇ。せんせ、うちこそいっつも雅史と美紀男がお世話さなってます」
「河田君には私も助けてもらってますよ。美紀男君も部の明るいムードメーカーです」
「せんせぇ……!」
美紀男が感激に声を震えさせる。母も同じ声で喜び、
「そらえがった。カズ君も、美紀男に色々教えてやってね」
と、彼女にくっついて話を聞いている深津に言った。深津は真面目な顔で
「任せろピニョン」
と答え、
「でも、まきこおばさんのおはぎがあったらもっと頑張れるピニョン」
と欲を出した。河田母はのんきな顔であははと笑い、
「今度はカズ君のためにおはぎさ作ってくるからねえ」
と答えた。深津は無表情ながら満足げに頷き、
「ゴマのやつがいいピニョン」
と甘えた声で言った。
部活中は静かで規律の取れた集団であった彼らも、練習が終わって河田の母と話しているときはただの甘えたなこどもになった。厳しい練習の反動か、それとも親元を離れて暮らす寂しさ故か、年頃の意地の強さや自立心を示すこともなく、ただただ寄せられる愛情に目を細め頬をすり寄せる。彼らの姿、その変貌を桜木は不思議な気持ちで見た。
「母ちゃん、これで荷物全部か?」
「ん。わりね、雅史。松本君も」
「なんもだ」
「お久し振りです。おばさん」
「さ、お前らそのくらいにして帰るぞ。おばさんだって忙しいんだから」
監督の代わりにマネージャーが指示を出す。山王のマネージャーは助監督と呼ばれるほどチームに影響力があるのだという。その彼の号令で、最後の最後に彼らは声を揃えて、
「ありがとうございました!」
と頭を下げた。山王工業高校バスケットボール部一同の張り上げた明るい声が体育館をびりびりと揺らした。
桜木も一同に挨拶をして河田家の車へと向かった。明るい場所にいたせいで気付かなかったが、日はもうとっぷりと暮れて、外はどこかさみしい夜の匂いがする。暗闇の中に、ワンボックスカーの白色がぼんやりと浮かんでいた。
「スミマセン、おばさん。今日はお世話になりマス」
後部座席に乗り、桜木はバックミラー越しに河田の母に挨拶をする。河田は助手席に座り、意外そうな目をミラーに向けた。河田の母は細く目尻の吊り上がった目をやんわりと細めて笑い、
「大したもてなしさできねけど、ゆっくりしてってね」
と言った。それから、
「もう背中は大丈夫なの? 桜木君」
と続ける。名前も背中のことも知られているとは思いもしなかった桜木は、面映ゆさに頭を掻きながら、
「ハイ、もうすっかり大丈夫っス」
と答えた。河田の母は美紀男によく似たのんびりとした声で
「そう。えがった。頑張ったんだねえ」
と言った。桜木は黙った。三人を乗せ、車はゆっくり走り出した。
街灯の少ない道をライトが照らす。普段車に乗る機会の少ない桜木は、流れる景色を珍しいものを見る目で眺めた。目の前が光に切り抜かれて道が開かれていく感じは不安と共に不思議な爽快感を彼にもたらす。再会時の騒がしさから一転、借りてきた猫のように大人しく座っている桜木を、河田は疲れていると思ったのか、
「起こしてやるから、寝ててもいいぞ」
と低い声で言った。桜木は、んーん、と首を横に振り目を細めた。そうすると目の中で光が拡張してぼやけていく感じがした。
車が河田家の敷地に入ると、音や匂いを察知したのか、大きな茶色い犬が手作りらしい犬小屋から飛び出してきて尻尾を振った。犬はよくしつけがされており、吠えることもなく離れた場所で飼い主が車から出てくるのを待っている。
「お待たせね」
河田の母が車を停める。桜木は彼女に礼を伝えて車を降りた。河田も降り、真っ先に犬の元へ向かう。桜木も彼の後についていった。
「おう、おう、ただいま」
大きな日本犬も、河田のしゃがんだ腿の間にいると小さく見える。河田は顔じゅうを舐め回されながら愛犬を撫で、背後に立つ桜木のことを弟に語り掛けるような声で紹介した。桜木も足の間にボールを挟んでしゃがみこんだ。犬は人間の言葉を理解しているような目で桜木を見て首を傾げる。河田に促され耳の間を触らせてもらったが、犬は突然の来訪者を警戒することもなく、硬い毛並みを桜木の前に差し出して大人しくしていた。
河田の家は古い二階建ての日本家屋で、敷地が広く、隣の家が遠かった。引き戸を開けると土壁の玄関の乾いた匂いがする。上がり框の先、左手の壁に電話台、正面には二階に続く階段が見えた。
ただいま。おじゃまします。河田と桜木がそれぞれ言うと、右手の奥から河田によく似た男性が出てきて、おかえり、いらっしゃい、とそれぞれに答えた。
「父ちゃんだ」
と河田が言う。桜木は、お世話になりマス、と頭を下げた。父親は手に持った銀色のボウルを菜箸でかき混ぜながら、
「ゆっくり休んで」
と桜木に言った。言葉は不愛想だが、表情はさっぱりとしていて気持ちがいい。灰色のパジャマに濃紺の半纏を羽織った背中が硝子戸の奥へと引っ込んでゆく。後姿を見届けてから河田は桜木の顔を見てニカッと笑い、
「今夜は天ぷらだべ」
と言った。
手洗いとうがいの後、河田の案内で居間に向かうと、食卓のこたつの前では彼の祖母が座ってテレビを見ていた。河田家は父も母も身体が大きいが、座っている祖母の身体は細く小ぢんまりとしている。輪郭や鼻の形は河田によく似ていて、しかし目の形は誰にも似ていなかった。壁に飾られた写真の一枚、その中に河田やその父とよく似た眼差しの男性がいたから、彼らの目はきっとその人から受け継いだものなのだろう。桜木は彼女の傍に正座して、おばあちゃん、ひと晩お世話になります、と挨拶をした。祖母はその誰とも似ていない目を緩やかに細めて、河田の父とよく似た様子で
「ゆっくりしてって」
と言った。テレビの音の隙間から、両親が仲良く天ぷらを揚げている音が聞こえた。
五人の座る食卓には、天ぷらと刺身、芋煮と胡麻和え、味噌汁、それからガス炊きの米が並んだ。野辺が河田家のメシは旨い、と言っていたが、彼の言葉は実に正しく、桜木はおかずをひとくち口に入れる度感激し、米を三杯もおかわりした。隣に座る河田の食べっぷりが気持ちのいいものだから、それに誘われたというのもある。ちなみに炊飯器は河田の左隣に置かれている。美紀男がいるときはふたりの間に置かれるのだという。
「桜木君、たくさん食べてくれるから気持ちいいね」
「んだ」
「お母さん、おばあちゃん、この芋煮マジでうめーっす。作り方教えてください!」
「うれしいわぁ。後でメモ書いとくからね」
「ありがとうございます‼ 米もめっちゃ旨いっす!」
家の周りは夜に包まれたように静かだが、中は笑い声で溢れている。明るい声が照明にぶつかって、飾られているトロフィーの角がきらきら光っているように見えた。
「マサシ君、今日の練習中もスゴかったんですよ」
桜木は何だか気持ちが弾んで、河田の脇腹を肘で突っついた。
「あら」
「おい、やめれ」
「照れんなよ。ムスコさんは立派ですね。練習のときもそうじゃないときもみんなから頼りにされてて。でもね、お母さん。マサシ君たら練習中もマル……ミキオ君のことばっか気にして、全然弟ばなれできてねーんデスよ」
「そうなの? 雅史」
「はい」問われた河田の代わりに桜木が大きく頷く。「ヤマオーの練習ってすっげえ静かでゴーリ的で、ボールと靴と笛の音しかしねーんですけど、そんな中で、ふふ、マサシくんの『バカタレェ』ってデッケー声だけ響くの、おかしかったなあ」
「…………」
楽しげに笑う桜木の隣で、河田は耳を赤くしている。彼は口に含んだおかずを呑み込んだ後、テレビの画面に目を遣って、
「そういや、今夜だべな、霜月神楽」
と話題を逸らした。霜月神楽とは保呂羽山波宇志別神社で毎年奉納されている神楽のことで、夜を徹して舞われる神楽は国から重要無形民俗文化財にも指定されている秋田の大切なものなのだが、それでもこの場の話題を変えるほどの力はなく、家族は皆桜木の話の続きを聞きたがった。
「カンネンしろよ、マサシにーちゃん」
桜木が味噌汁の椀を傾け口にすると、河田はぶすくれた顔でしゃもじを握り、
「うちの弟はもっとでっけえ」
と返して皆を笑わせた。
食事の後の片付けは、桜木と河田のふたりで引き受けた。
「お母さん、先にお風呂入ってください。後は俺とマサシ君でやっとくんで」
と桜木は河田を巻き込むつもりで彼の背中を叩いたのだが、気持ちのいい青年であるところの彼は桜木の振りに鷹揚に頷き、
「んだ。母ちゃんはゆっくりしてけれ」
と率先して片付けに名乗りを上げた。河田の母は最初、お客さんにそんなことさせる訳には、と遠慮したが、河田の、もうこいつはお客じゃねえべ、という言葉を前向きに捉えたようで、ならお願いしようかね、と息子の言葉に甘えることにした。洗い物をしながら聞くと、どうやら河田は実家で過ごすときはいつも片付けを引き受けているらしい。
「はー、どーりで慣れてるワケだ」
桜木は感心のため息をついた。湘北のレギュラー陣にそういう気遣いができる人間はひとりもいない。しっかり者の木暮や安田でさえ、できるかは微妙なところだ。
「おめこそ、意外としっかりしてんだな」
河田の方も、桜木が洗った皿を拭きながら、その仕事ぶりの意外な丁寧さや気の回し方に感心しているようだった。桜木は素っ気ない声で、天才だからな、と言い、それから、
「丸ゴリは孝行息子だな」
としみじみ言った。河田は何てことないという様子で、
「母ちゃんは『疲れてっからやらんでええ』って言うけど、疲れてんのは母ちゃんも一緒だかんな。俺らは大食らいだし。……それに、今やらんでもいずれやることなら、今からやった方がいいだろ」
と答えた。親元から離れて暮らすというのは、こどもに異なる立場からの目や気付きを与えるのだろう。彼の目は静かに、こども時代の終わりを見つめていた。
ふたりは食器洗いと片付けの他、朝食用の米を研ぎ、麦茶を作り、排水口とガスコンロの掃除をして、風呂上がりの河田の母を驚かせた。
「寝巻とタオルは後で持ってくから、次はおめが入れ」
河田の言葉に促され、家事を終えた桜木は浴室へと向かった。河田の家は古いつくりをしているが、ここだけは彼らの身体のサイズに合わせてリフォームしているようで、風呂場は広く、浴槽は桜木が足を伸ばせるほど大きかった。普段アパートの古いバランス釜で身を縮めている桜木にとっても、大きな風呂は有難い。鼻歌交じりで肩まで湯に浸かっていると、扉の向こうから人の気配がして、何やらを置いていく影が見えた。リラックスしているときに人の気配があるのは落ち着かなかったが、悪い気はしなかった。
疲れと緊張を湯で洗い落とし、さっぱりとした身体で風呂場から出る。通りがかった台所に人の気配があったので、桜木は薄く開いた扉越しに挨拶をした。すると、河田の母が顔を出し、麦茶のグラスを渡してくれた。有難く受け取って二階の河田の部屋へと上がる。階段の先には襖が二枚。ということは、子供部屋はひとつらしい。
「おう、お風呂ごちそーさま」
「ん。さすがのおめでも俺の寝巻はでっけえな」
ふた間続きの部屋の奥、振り返った河田は桜木の姿を見て笑った。読んでいた本を閉じた彼は脇に置いていた自分の着替えを持って立ち上がる。
「本でも何でも、部屋にあるモンは好きにしていい。疲れてたら先に休め」
すれ違いざま彼は自然な動作で桜木の頭をぽんと叩き、それから、
「あ、ワリ」
と言った。どうやら無意識に美紀男と同じようにしてしまったらしい。桜木は、丸ゴリでもそういうところがあるんだな、と思いながら、ン、と喉で返事をした。
ひとりになった部屋は広く静かで、しかしさみしくはなかった。彼は河田が読んでいた本――古典の教科書だった――を開いて眺めてすぐに閉じ、それから本棚にある雑誌の背表紙の並びを眺めた。同じ雑誌が番号順に綺麗に整列している様は、河田の性格の几帳面さと、彼がバスケットに関わってきた歳月の長さを桜木に教えてくれる。彼はその中から一等くたびれている一冊を選び抜き出した。表紙に写る見知らぬ青年は、壁に掛けられたものと同じ色のユニフォームを身に纏っている。桜木は敷かれていた布団の上にうつ伏せになって、河田少年の幼い憧れに想いを馳せた。
「――……ミチ、風邪ひくぞ」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい桜木は、河田の声に優しく肩を揺すられて目を覚ました。首を傾けると、ドライヤーと麦茶を手にした河田が立っていた。
「……丸ゴリ、坊主だからドライヤーいらねーだろ」
寝ぼけ眼でむにゃむにゃ返すと、河田は、
「バカ、おめーにだ」
と言い返してコンセントを挿した。ゴー、と静かな部屋に風の音が立つ。桜木の半分乾いた髪にあたたかい風が触れた。
「……おめ、これ地毛なんだな」
河田の太い指が桜木の髪を梳る。桜木はまた、ン、と喉で返事をした。
「きれーなもんだ」
「おー」
「大分伸びたな。もう坊主とは呼べねえ」
だからさっきおめー、ハナミチって俺のこと呼んだんか? と桜木は思ったが、口にしたらもう呼んでもらえない気がしたので伝えなかった。代わりに別の言葉を口にする。
「部活出る前に剃る」
「そうか。スポーツマンだもんな」
「ヤマオーはみんな坊主だな。坊主王国」
「王国って、はは。んだ、部員同士で刈ってんだ。深津、おめの頭刈りたそうだったな」
「え、」
「刈ってもらうか? 明日。あいつきっと、『これでもう桜木はうちの子だピニョン』とか言ってくっぞ」
「何だそれ?」ふふ、と桜木の肩が揺れる。河田も声に笑いを滲ませて答えた。
「野辺が新入生の頭刈ってやったときに言ったのを気に入ってな、よく言ってんだけど、その度怖がられてんだよ」
「はは」
「沢北だけだったな、喜んでたの」
「あいつっぽいな」
「おめにも分かるか、あいつのがぜねとこ」
「がぜね?」
「ガキっぽいとこ」
「はは。小坊主の名付けは正しかったな」
「んだ。……あいつ、アメリカ行っても坊主だったべ。周りがみーんなでっけえから、正に小坊主だ。写真で見たけど」
「……アメリカかあ」
ドライヤーの音が止んだせいで、桜木の呟く声がいやに際立って部屋に響いた。河田は桜木の赤い頭を今度こそきちんとひと撫でし、もう寝るか? と口にした。桜木は特に答えず、
「……秋田も遠いけど、アメリカはもっと遠いんだろうな」
と呟いて、それからゆっくりと目を伏せた。
彼の言葉をどう受け取ったのか、河田はうつ伏せになった桜木の背中の中心に優しく手を当て、もう一度頭をそっと撫でてから布団を掛けた。彼は、弟が幼い頃そうしてやったように、豆電球の明かりをひとつ灯したまま床に就いた。
