Baby, it’s you.

 十二月に入ると、ニューヨークの街は一気に明るく、眩しくなる。飾られたツリーや店先のイルミネーションの色とりどりの輝きが人々の白い息を染め、横顔を淡く彩る。その、あたたかな美しさに誘われて、人々は寒空の下を街に繰り出すのだ。それはスティーブとトニーにとっても例外ではなく。ふたりはこの日、クリスマス用のセーターを探しに街に出ていた。
「知ってるか。今じゃラルフ・ローレンでさえダサセーターを出してるってさ」
「へえ。近くにあったよね。見てくればよかったな」
「金持ちの悪趣味を進んで見に行こうなんて、アンタも随分悪趣味になったもんだ」
「誰かさんと一緒にいるからね」
「誰のことだ? 浮気なら許さないぞ」
 腕から紙袋をぶら下げてふたりが歩くのは、マンハッタンはアッパー・イースト・サイドのセカンド・アベニューだ。真新しいビルの間に古めかしい煉瓦造りが点在する広い大通り。夕刻というには少しはやい時間をゆったりとした足取りで歩くふたりを、寒さにコートの襟を立てた男性が足早に追い抜いていった。この忙しなさも、十二月を彩る風物詩のひとつだ。
 世間の喧騒から距離を置いたふたりは、そのままゆったりと歩き、通りでいちばん古い外観の店に入った。新しくできたタイ料理屋は、店名にタイと付いていなければ分からないような煉瓦造りの外観だが、一歩足を踏み入れると、すぐ横の壁にはタイ語が彫り起こされ、それはふたりの目に、まるで木と花を描いた装飾のように見えた。
 にこやかな店員に案内され、酒瓶の飾られたカウンターを横切る。薄暗い店内は狭いが奥行きがある。暗がりを真っすぐに進んでゆくと、開けたホールに行きあたり、ふたりは揃って天井を見上げた。格子状の梁から垂れ下がる、色とりどりのランプ。円筒や四角形に楕円状、ピンクに橙、青紫と、色も形も異なるそれらに共通するのは、ランプシェードや金属部分の繊細な意匠だ。見惚れていると、店員はふたりをランプが一等よく見える特等席に案内してくれた。夕飯時にはまだはやい、人のまばらな店内で、ふたりはランプの灯す淡い光と影の揺らぎをしばらくの間見つめていた。
「ソーダをふたつと、アペタイザーを適当にふたつかみっつ、見繕ってくれ。……あと何かあるか?」
「いや、それで」
 こういう場で注文を請け負うのはトニーだ。食事の店を決めるのもトニーの方が多い。偏食なのは彼の方であったし、ニューヨークの旨い店を知っているのも、加えて気分屋なのも彼の方だからだ。スティーブはいつも最初の注文を彼に任せ、物足りないときだけ店員に追加を頼んだ。それが、度重なるデートの中でふたりが自然と築いた様式だった。
「ビールの方がよかった?」
「いや、どうせ酔わないし。種類も分からないから」
「こっちのとは結構味が違うから、気になったら試してみるといい。僕は、タイビールだけは好みじゃなくてなぁ」
 好みじゃない。その一言に、スティーブの眉間に僅かな影が差したが、ランプを見上げていたトニーは気付かなかった。
「……トニー、」
 気付かなかったから、スティーブがトニーを呼んだ、その声の重い響きを聞いて、トニーは初めてぎくりとした。こういう声で恋人が自分を呼ぶとき、それはいつも重大な決意を伴っていた。
「ん?」
 何てことない風を装って首をかしげる。咄嗟に、開いたメニューを胸の前に立ててしまったことに、彼は気付いているだろうか?
 メニューの衝立の向こう、スティーブはアイボリーのシャツの輪郭を橙のランプに仄かに照らされながら、眉間に二本の皺を刻んでいる。以前スティーブはトニーに、君は機嫌が悪いときほど笑顔が明るいから厄介だ、と言っていたが、いいことも悪いことも同じ表情で告げようとする彼に比べれば分かりやすいだろうとトニーは思う。スティーブは、三か月に渡る長期任務も、キスがしたいという欲求も、同じ表情で切り出してくるのだ。
「実はね……」
 唇の上で言葉をまごつかせるスティーブは、恋人の瞳に不安が沈殿していくのに気付いた様子もない。恋人が自分の胸に、あのシャツは秋口に一緒に買いに行ったものだから、きっと悪い話の筈がない、と言い聞かせていることはもちろん、店員がソーダの瓶とグラスを手に、こちらの様子を窺っていることにさえ気付いていない。たっぷりとした沈黙の後、スティーブが口を開いた。
「僕、本当は香草が苦手なんだ」
「…………ん?」
「春巻きの中とか、サラダの上に乗ってるだろう? 大した量じゃないからって思ってたけど、やっぱりあの口に入れたときの匂いが苦手で……」
 スティーブの斜め後ろから現れた店員が、穏やかな笑顔――それも心からの安堵の表情――を浮かべながら、ふたりの間にソーダの瓶とグラスを置く。店員は、品よく控えめな調子で、それなら香草抜きでお作りしましょうか? と申し出た。スティーブは顔を明るくして、迷惑じゃなければ、と答え、店員は笑顔で頷き、去っていった。
「いい店だ」
 スティーブが言って、ソーダのグラスを傾ける。それがテーブルに足をつけた、カタン、という音を聞いて、トニーは緊張の糸を切り、溜息と共にテーブルの上に肘をつき項垂れた。
「トニー?」驚きの声。
「…………別れ話かプロポーズかと、思った」
 消え入る声を、超人の耳はしっかりと聞き取る。何故? と己の癖に無自覚な彼は訊ね、トニーの失笑を買った。
「君はいつも、とびきりのいいことも、その逆も、同じ顔で口にする」
「そうだったか……」
 気付かなかった、と、自分の顎を手で摩るスティーブの鈍感が腹立たしくて、トニーは恋人に手を伸ばし頬を抓る。硬い頬は表情筋の職務怠慢だ。両手を使って揉みほぐすと、その甲斐あってかスティーブは声を上げて笑い、悪かったよ、と口にした。トニーは満足して、乾いた喉をソーダで潤した。
「言っとくけど、別れ話なんて絶対しないから」
 今度は随分頼もしい言葉だ、と、トニーは笑う。
「プロポーズは?」
「それはっ……もう少し待って」
「いいけど、別に、僕からしたっていいんだからな」
 ようやくいつもの調子を取り戻すと、何だか食欲がわいてきた。今度はメニューをふたりの間で横に倒して広げてみせる。
「他に苦手なものは?」
 サラダやスープ、ヌードルにカリー。名前からでは想像のつかない彩り豊かな料理たち。小さな写真を見比べながらページをめくる。
「いいや、平気。――ここにはないけど、セロリとか、匂いの強いものは少し苦手なんだ。昔は平気だったんだけど」
「ふぅん。血清のせいかな」
「そうかも」
 ひと通り実施した検査の数値では、好みの変化までは読み取れない。それは仲間だから、或いは、恋人だからこそ知ることのできる日常だ。お陰で食べられるものも増えたけど、と微笑むスティーブの伏せた睫毛の上にランプの光がおりて繊細な影を作るのが、やけに美しく見えた。それが愛しくもあり、たまに憎らしくもある。
「……全く。もっとはやく言ってくれれば」
「はは。悪かったよ。少しなら我慢できるんだ」
「我慢のし過ぎは身体に悪い」
「君らしいな。でも、そう思うから今日伝えた」
 君とはきっと、ずっと一緒にいるんだろうし。
「……」
 スティーブの言葉に、今度こそトニーは固まった。人の心の機微に疎い彼は、いつだってトニーの中にあるスイッチを全力で踏み抜く。それは怒りであったり、愛であったり。
(――これがプロポーズじゃないなんて、信じられるか?)
 今、思い切りよく踏まれたスイッチは、一体トニーの中のどのスイッチだろう? 呆れか、喜びか、怒りか、恋か。冷静でないトニーには分析できない。――そのどれかであるような、どれもであるような気さえする。
「だから君も、苦手なものとか、好きなものとか……」
 トニー? ようやく恋人の肩の震えに気が付いたスティーブが言葉を止める。トニーはいよいよおかしくなって、こらえたおかげで目尻に溜まった涙を指先で拭って言った。
「好きなものは君だよ!」
 ランプの向こうで、店員が香草抜きの料理を運ぶタイミングを伺っている。