Ein Stück Stollen

 普段は色とりどりのカップケーキが飾りのように積まれているウィンドウに今日は小さな雪山が積み上げられているのが見えて、スティーブは、おや、と思った。
 行きつけという程ではないが、たまに足を運ぶベーカリーは流行の中心地であるニューヨークに古くからある店だけあって味も見た目も洗練されている。彼にこの店を教えてくれた男もまた、スティーブが知る中で最も洗練された者のひとりで、男はこの店のオートミールとレーズンのクッキーを特に気に入っていた。
 時刻は午後三時を回った頃で、店の空気は小麦とバターの焼ける匂いとコーヒーの香ばしい匂いにふさわしい穏やかさだ。客のほとんどは地元住民のようで、彼らはあと一時間もすれば、ひとつ向こうの通りであるブロードウェイからやってくる、観劇を終えたばかりの客や、夜公演までの束の間の休息に訪れるスタッフたちであふれかえることを知っている常連たちでもあった。
 その常連たちのほぼ全員が、先ほどの小さな雪山を買い求め、積み上がる大山を切り崩してゆく。晩の食卓に並ぶハードブレッドや明日の朝食だろうペイストリーとは別の包みに入れて渡されるそれを、誰もが皆大切そうに受け取り、パンの重さが幸福の重さだと言わんばかりの笑顔を伴い店を後にする姿は、スティーブの興味を大いに引いた。前に並んだ老夫婦が、今年もこの味にありつけたね、と笑顔を交わす。そのそっくりな横顔が決め手となって、彼は朝食用のブラウン・ブレッドと間食用のクッキーに加え、その雪山をひとつ買い求めることに決めたのだった。

 粉砂糖の雪を被った茶色い小山の名前がシュトレンというのだと教えてくれたのは、珍しくタワーに勢ぞろいしていた仲間たちだった。
「有名なのか?」
 買ったばかりのパンをキッチンのテーブルに並べながらスティーブは問う。ナターシャが頷く。
「ええ、特にこの店のは。九番街の店でしょ? 青い外装の」
「ああ。たまに行くんだけど、初めて見たパンだったから」
「誰かさんのクッキーを買いに?」
 横やりを入れてきたのは、淹れたての紅茶に息を吹きかけ冷ますブルースだ。湯気で眼鏡を曇らせる彼の隣でナターシャがくすくすと笑う。ふたりの視線は同じところ、キッチンに立つもうひとりを見ている。もうひとりはそんな視線を物ともせずに、コーヒーメーカーにカップをセットしながら答えた。
「シュトレンは冬のパンなんだよ。ドイツの、伝統的なクリスマスシーズンのパンだ」
「へえ、知らなかった」
「無理もない。――この店では十二月一日から売り出して、売り切れたらその年のシュトレンは終わりだから、偶然行って置いてあったなら運がいい」
「へえ、ラッキーだったな」
 じゃあ皆にもお裾分けしようか、と袋を開ける。持ち上げると、ずっしりと重いパンから酵母の他にレーズンやオレンジピール、くるみやアーモンドの香りがして、雪山の豊かな実りを教えてくれた。
「シュトレンの意味は?」クリントが尋ね、ソーも首を傾げる。
「『坑道』だったかな。形がトンネルに似ているから」ブルースが答えると、ナターシャが、詳しいのね、と感心の声を上げた。「名前だけね。中身のことは多分君のが詳しい」
「私も詳しくはないわ。食べたこともないし。知ってるのは、中にマジパンが入ってるってことくらい」
「マジパン?」
「何だ、ソー、知らないか。マジパンってのは甘くてぐにぐにした菓子で……何でできてるんだ?」
「知らないわよ。砂糖と……」
「ちょっと待って、……『マジパンは、挽いたアーモンドと砂糖を練り合わせた菓子』、へえ、アーモンドだって」
 ソファで盛り上がる仲間たちの会話を聞きながら、半分に切ったシュトレンを割り開いてみる。絵に描いた雲のような形をした断面の丁度真ん中に、満月を切り取ったような黄土色の塊があった。これがマジパンか、とスティーブは息を吐く。背後でコーヒーメーカーがふたり分のコーヒーの出来上がりを音で知らせた。
「シュトレンってのは……なになに?」
 四人はそのまま、ブルースのスマートフォンでシュトレンについて調べることにしたらしい。トニーもコーヒーを両手に持ってソファに向かう。彼は、そんなの僕のジャービスに聞けば一発なのに、と相変わらずの憎まれ口を叩きながら、スマートフォンの周りに集まる四つの頭に加わった。
 スティーブはそんなトニーの姿を横目で見ながら、人数分のシュトレンを乗せた皿の脇に、丁度六枚ひとパックのクッキーを添えて盆に乗せる。プレーン、チョコチップ、スパイス、セサミ、ピーナッツバター、それに、オートミールとレーズン。
「ええと、『シュトレンはドイツとオランダで伝統的にクリスマスに食べられる食品で、発祥はゼクセン州のドレスデンとされている。ドレスデンには、ドレスナー・シュトレン保護協会が定めた品質をクリアしたシュトレンのみ貼付が許される、ドレスデン・クリストシュトレンという認定シールがある』……」
 盆に乗せたシュトレンをダイニングテーブルの上に並べ、トニーの隣に腰掛ける。淹れてくれたコーヒーに口を付けると、スティーブ好みの深煎りだった。皆が、ありがとう、と皿の脇に添えられたフォークを手に取る。
「お、随分気前がいいな」
「大きいパンだったから。クッキーは余計だったかも」
「折角の厚意だ。断る訳にはいかんな」
「ハイハイ、食いしん坊さん。夕飯減らさなきゃね」
「ふふ、『――シュトレンは日持ちする菓子で、ドイツではクリスマスを待つ四週間のアドヴェントの期間、毎日少しずつスライスして食べるという習慣がある。』……、」
「…………、」
「……毎日少しずつ」ブルースが繰り返す。六人全員が、自分の手元にあるシュトレンの皿を見つめた。
「……あなた、もしかして、これ全部切った?」
「……うん」
「…………ぶっ」
 クリントが噴き出したのを皮切りに、全員がワッと声を上げて笑い出す。輪の中心が弾け破れてボールが飛び出すような笑い声だ。
「四週間分!」
「さすがキャプテン」
「ふっ、ふふ、『四週間の内に中に入っているフルーツやスパイス、バターなどが生地と馴染んで、味や食感が変化していくのを楽しめる。』だって。残念だったね」
「でも贅沢よ。ふ、あはは! おっかしい」
「そんなに、笑わなくても……ふ、分厚いな……」
「君も笑ってるじゃないか!」
 いつまでも笑い止まない六人の前には、六等分された分厚いシュトレン。笑い止まないから手を付けられない塊はいつまでも減らず、けれど甘く刺激的な香りでリビングを満たした。

「それから、ケーキを食べるように簡単なことを〝Piece of cake〟というのと逆に、困難なことを〝Ein Stück Stollen〟と呼ぶようになってな。彼はシュトレンひとつ、満足に切れないから」
「……またその話?」
 目の前に並んで座るトニーとスティーブの表情は、晴れと曇りのように対照的だ。上機嫌な笑顔のトニーと、恥ずかしさと呆れの入り混じった表情のスティーブと。
 ふたりの前に置かれたのと同じ分厚さのシュトレンにフォークを刺しながら、この人がこんな顔を見せてくれるのは珍しいな、とピーターは思い、しばしその僥倖に見入った。
「坊やは知ってたか? シュトレンは毎日少しずつ食べるって。――土産に持ってきてくれた位だし、知ってるか」
「えっと、これ、クラスメイトのおすすめの店ので、その習慣も、その子が教えてくれました。あと、小学生の頃、世界の食文化を調べる課題があったから」
「なるほど。と、まあ、そういうことで、我々のシュトレンは毎年分厚いのだ」
「アベンジャーズ流?」
「不本意ながらね」
「ふ、そういうこと。今年は少し薄くなったが」
 頬杖をついたトニーが、シュトレンの端にフォークを立てる。彼の迎え舌で物を食べる癖を、ピーターは最近になって初めて知った。何だか少し刺激が強くて胸がどきどきしたが、隣に座るキャプテンは特に気にした様子もなく、同じようにシュトレンにフォークを刺した。
「そうだね。バックと、サムと、ローズ大佐と、ワンダとピエトロと、ビジョンと、それに君の分で」
 反対の手で指折り数えて、切り分けた大きな欠片を口に放り込む。気持ちのいい食べっぷりも言われた言葉も嬉しくて、ピーターは、来年はもっと薄くなるといいね、と答えた。大人ふたりはしばし顔を見合わせてから、よく似た顔で、Ein Stück Stollen だけどな、と笑った。