Fly girl, in the sky
「――や、勘弁してくれよ」
春の嵐が砂埃を巻き上げて、ローファーの足元に落ちた早咲きの桜の花びらをもう一度散らした。
「え、」
「どうせ野間たちと賭けか何かしてんだろ? そういうの悪趣味だよ」
顔を上げた花道の丸い大きな瞳に、少年の嫌悪が映る。彼は肩にくっついた花びらを煩わしげに二、三度はたいて辺りを見回し、もう行くよ、と言った。上がらない語尾の断定形に花道の唇から思わず渇いた笑みが漏れる。
「……うん。その、ごめんな」
言葉は最後まで届いただろうか? 学ランの背中は振り返らない。
(第二ボタン、欲しかったな)
――桜木花道、十五歳。中学生活最後の恋は、落ちて踏まれた花びらよりも惨めに散った。
四月。神奈川県立湘北高校。入学式やホームルームを終えた未だ緊張の残る一年七組の教室に、大楠雄二の気の抜けた明るい声が響く。
「おい~、お前まだ引きずってんのかよ花道ぃ」
慰める言葉の割に軽薄な音。隣では高宮望がだるまの玩具のように相槌を打っている。新生活への緊張とは無縁の彼らは、いつもと同じように惚れっぽくも振られやすい悪友のひとりをからかって遊んでいるのだった。
「落ち込むなよ、俺らがしっかり敵討ちしてやっただろうが」
「そーそー、ご期待通り、茂みの陰から飛び出してなぁ」
髭を撫でながら頷くのは野間忠一郎だ。あの日、花道を置いて体育館裏を去りかけた少年の前に立ちふさがって、地を這う声で、おめーのせいで賭けに負けちまっただろうが、と悪役らしいドスを利かせた彼も、今は大楠と高宮の仲間となって花道をからかっている。
「大体あんなののどこがいいんだか。バスケ部の小田君だか何だか知らんが、お前より小せぇ上に中身まで小せぇとあっちゃよぉ。うちの洋平を見習えってんだ」
なあ、洋平。と投げかけられて、水戸洋平が苦笑を深める。教室の窓側、一番後ろの席に座って項垂れる花道の傍で皆の話を聞いていた彼は、今こそ優しげな笑顔をしているが、あの日は鬼さえ殺しかねない形相をしていた。その彼が言う。
「お、それは俺にケンカを売ってるな? ……まぁ、お前が惚れる価値のある男じゃなかったよなぁ」
「そーそー、だからさ、次はもっといい男探せよ」
「そーそー、お前より背の高い男。あんまいねーだろうけど」
「赤毛のスケバンに怯まねぇ男。ほとんどいねーだろうけど」
男三人が大笑いするのを見て、水戸はそっと教室の隅に移動する。俯いていた花道の長い髪がまるで炎のように揺れた。
「立派なロンタイですこと」
「見事な赤毛ですこと」
「素敵なソバージュですこと」
「おい、お前らそれくらいにしとけよ……、」
水戸の言葉を切っ掛けに花道がゆらりと立ち上がる。一七九センチメートルの長身に見合う長い足であっという間に三人との距離を詰めた彼女の唇が、垂れた髪の間でゆっくりと開き言葉を紡ぐ。
「……こ、れ、は、……地毛だ~~~~!!」
叫んだ花道に金髪頭を掴まれて、大楠の額に彼女の頭突きが炸裂する。慌てふためく他の男たちも、学ランの襟を掴まれ同じように地面に沈められた。頭突き三発で男たちを黙らせた花道は、乱れた髪をかき上げてふんと息をつくと、その足で教室を出て行った。
「おい、どこ行くんだよ」水戸の声が追い掛ける。
「トイレ」花道は振り返りもせず答えた。自分の怒り悲しみに夢中の彼女は、クラスメイト全員の脳裏にバスケ部の小田君の名がしっかりと刻まれたことに思い巡らせる余裕もない。
(……笑顔が素敵だったんだ。シュート決めたときの)
退屈な体育の授業中、ネット越しに見かけた彼の姿にときめいて、同じような女子の会話で彼がバスケットボール部だと知った。いつか試合の応援に行ったり、一緒に帰ったりできたらな、と憧れるように恋をして、それは散々の形で終わった。
(大嫌いだ、バスケットなんて……)
思い出して鼻をすする彼女は、未だ嫌いの対象を小田君に向けられない自分の甘さ弱さに気付いていない。漏れた溜息に背中が丸まる。――と、
「あのう……スミマセン、」
その背中に声がぶつかる。綺麗な声。鈴の音のようだ。
「バスケットはお好きですか……?」
バスケット。今正に悪態づいたその五音に、花道は反射的に振り返る。背中まで伸びた赤毛のソバージュが勢いよく翻り、通りすがりの幾人かをたじろがせた。
「バスケットはお好きですか?」
繰り返す鈴の音に拳を握った彼女の目に飛び込んだもの。それは、花道の憧れや理想、なりたい自分のイメージにぴったりと重なる美少女だった。
目尻の少し下がった大きな目、ゆるやかなアーチを描く眉毛にツンとした鼻。桃色の頬と唇。少女らしい丸みを持った小づくりな輪郭にバランスよく配置されたその顔はまるで、丁寧に作られたお人形さんのようだ。見惚れる花道が言葉を失くしている間に、彼女は人懐っこい雰囲気で、背が高いですね、と右手をかざして自分と花道を比べている。と、その手が花道の二の腕を掴んだ。
「うわあ、きれいな筋肉」
不良らしく腕まくりした花道の生の二の腕を、やわらかく小さな手がにぎにぎと握る。彼女の興味はそのまま花道の足に移り、改造制服の長いスカート越しにふくらはぎを揉んできた。
「わっ」
「まあ脚も……!! スポーツウーマンなんですね!!」
「イ……イエ別に……」
同性からこんな風に親しくされた経験のない花道は、顔を真っ赤にしてモジモジとしている。少女の遠慮ない手にされるがままの様子はまるで、彼女こそお人形さんになったようだ。教室から遠巻きに花道を見ていた悪友四人が口をあんぐりと開けている姿も、俯く彼女の視界には当然入っていない。
人形遊びの少女が立ち上がりにっこりと言う。
「やっぱりスポーツする人って素敵ですよね。バスケットはお好きですか?」
駄目押しのようなその言葉に、今度こそ花道は頷いた。
「大好きです。スポーツウーマンですから」
つい今しがたの心の声をあっさりと反故にして、花道は胸を張り答えた。そうすると元々の長身が更に大きく見えて、まるでそびえ立つ東京タワーのようだった。
「おい、花道が立ち直ったぞ!」
「何だよ、男じゃねーのかよ!」
「俺ら頭突きされ損じゃねーか!」
騒ぐ男たちの醜態をよそに、出逢ったばかりの少女ふたりは自己紹介を和やかに済ませ、更には放課後の部活見学の約束まで取り付けたのだった。
少女の名は、赤木晴子といった。
入学式の厳粛から一転、午後の光の差し込む体育館はまどろむような穏やかさで少女ふたりを出迎えた。開け放った扉から春の風が吹き抜けて、片付け忘れたバスケットボールをつついて転がす。足元に届いたそれを、晴子の手が拾い上げた。
「中学の時は、こんなふうにボールを出しっぱなしにしてたらスゴイおこられたのよね~」
手の中でくるくるとボールを遊ばせていた彼女が、ちょっと悪戯っぽい顔で花道を見上げる。バチンッ! その足元から目の覚めるような鋭い音が立つ。ボールが体育館の床を叩いた、張りのある音。
「あたし中学の時はバスケット部だったんですよ」
「スポーツウーマン!」
「ふふっ、そう!」
笑顔を弾ませ、晴子はボールを連れてゴールへと走る。リズムの整ったドリブルの音が静寂を心地よく埋めてゆく。
「さあっ! 赤木晴子選手カットインだっ!」
言葉の意味は花道には分からなかったが、晴子がバスケットボールが大好きだというのはよく分かった。ひたむきにゴールを目指すブレザーの後ろ姿。小さな両手がボールを掴み、ドリブルの低い姿勢が天に向かってスッと伸び上がる。
「レイアップシュー……とわっ!」
しかし、その手からボールが放たれるより先に、二本の足がもつれ絡まり、晴子は派手な音を立て地面に転んだ。
「ハッ、ハルコさん……!!」花道が慌てて駆け寄る。
「う~~~」
湯気が出そうなほど顔を赤くして、晴子は落としたボールを拾い上げた。
「桜木さん、やって!」
そう言ってちょっと乱暴にボールを放り投げる手つきは、けれど立派な経験者のそれで。花道は素人の手で彼女のパスを受け取った。
「実はあたし、運動神経ないんです。だから高校ではバスケットはやらないつもり」前髪をいじりながら、晴子は努めて明るい声で言う。「湘北は女子バスケット部がないから選んだの。お兄ちゃんがいるからっていうのもあるけど……兄はここのバスケット部のキャプテンなの。小さい頃から身体が大きくて、あたし羨ましかった」
――桜木さん、ダンクって知ってる?
「ダンク?」
「ダンクはバスケットボールの花形!! 最もエキサイティングで最も観客が喜ぶプレイ!! とくにあの、ゴールがこわれるんじゃないかというほど激しくたたきこむのを、スラムダンクっていうの」
「スラムダンク……」
「中学時代、兄が試合でダンクを決めると味方だけでなく敵の応援席まで大騒ぎで……体育館じゅうがドーッとなるの。スゴかったんですよ……」
そのときの興奮を思い出すように、晴子の頬が鮮やかに染まる。彼女は本当にバスケットボールが好きなのだ。
「あと、流川君のダンクもスゴかったな」
「ルカワ」
初めて聞く名前だ。珍しい響き。どういう字を書くんだろう? と花道が考えていると、ワッ! と晴子が驚きの声を上げた。
「桜木さん、ボールを掴めるの⁉ スゴイ!」
「ん? いやあ、自分、手が大きいから……」
ばつの悪さを茶化してごまかすように、ボールを持った手をぐるぐると回してみせる。手の大きい女なんてみっともないですよ、と言おうと思ったが、先よりもずっと興奮して大騒ぎする晴子のキラキラした目が眩しくて、花道は、大きい手もいいのかもしれない、とちょっと思い直した。
「桜木さんもしかしてダンクできるんじゃない⁉ 背高いし……む、無理かな⁉ 難しいかなぁ⁉」
女の子だし、と何気なく続いた言葉に、花道は思わず、やれます! と叫ぶ。晴子も、わーっ! と叫んだ。
「やってみて! やってみて!!」
「よおおし!!」
全身からやる気をみなぎらせて、花道はゴールの正面に向かう。助走用の距離を取った真向かいに立つと、ゴール下の開け放った扉の向こうがすっきりと見通せて、まるで花道のための新しい世界が広がっているようだった。扉の傍、ゴールの下で晴子が叫ぶ。
「このリングの中にボールをたたきつけるのよ、桜木さん! 思いっきり跳んでね!!」
「ハイ!!」
ピースで応え、花道はブレザーを脱ぐ。邪魔になるブラウスの袖を捲って長いスカートを二回折った。顔を上げると、晴子が驚いた顔でこちらを見ているのが見えた。
「危ないですよ」
「う、うんっ! ごめん」
パッと身を翻して晴子が脇に移動する。見届けた彼女は、行きますよー! と向こう岸から左手を振った。右手に下げたバスケットボール。ガンバッテ!! 晴子が壁際から返すと、花道は走り出した。
「げっ!!」
花道は走り出した。右手にしっかりとボールを掴んだまま。吹き抜ける風のような勢いで駆ける彼女に、晴子の目は釘付けになる。そして――、
「とうっ!!」
そして、彼女は空を飛んだ。少なくとも、晴子の目にはそう映った。晴子の目には見えない透明な階段を駆け上がるみたいにしてそのまま宙へ。いいや、空気の上へ。
真っ赤な長い髪の毛が風に乗って波打ち揺れる。長いスカートが捲れ上がって、昼間触ったふくらはぎから太ももまでが露わになった。余計なものの一切が取り払われた、野生の獣のような長く白い足。天に伸びる腕の引き締まったライン。指の長い大きな手。しっかりと吸い付くように掴まれたバスケットボールは、ゴールのリングよりも高いところにある。
「スゴイ!!」
これをそのままリングの中心に叩き付ければ――! 晴子がそう思った瞬間、花道は大きく振り上げた手を下ろし、リングではなくその足元に向かって思い切りボールを投げつけた。
「フンッ!!」
バチンッ!! 厳しい音が立つ。床にボールを打ちつける音ではない、もっと柔らかい何かに渾身の力でぶつかったような、暴力的な音だ。たとえばそれは人間の生肌、顔のような……、
「お前っ!! み、み、見たっ⁈」
いつの間にか着地していた花道が叫ぶ。勿論晴子にではない。開いた扉の奥、正確には、扉の奥にいる誰かに向かって。
「……見たって、何を」
扉の向こうから返答。ちょうど晴子からは見えない角度から聞こえた声に、彼女はギョッとした。花道が地団駄を踏んだ。
「何をってパ、……足だよあたしの!!」
「興味ねー。おい、それより」
ずい、と扉の向こうから学ランの腕とボールが見えた。花道が投げつけたボールだ。
「興味ねーじゃねー!! 見たんか⁈ 見てないんか⁈」
「……見えた」
「見たんじゃねーか!!」
「見たくて見たんじゃねー。それより」
「見たくて見たんじゃねーだと⁈ 被害者ぶんじゃねー!!」
「…………」
このままでは埒が明かない。そう思ったのだろう。声の主が一歩踏み出し扉を越える。現れたのは、長身の花道よりも背の高い、白皙の肌の額を赤くした美少年――、
「流川くん!」
晴子が思わず声を上げる。どこかで聞いた名前に花道が一瞬こちらに気を取られた。その隙を見逃さず、流川と呼ばれた少年が花道に向けてボールを差し出す。
「今の、もう一回」
少女の鼻の辺りにボールを差し出す彼は、切れ長の涼しげな眼で真っすぐに花道を見つめている。恐らく額で彼女のボールを受けたのだろうに、痛みも怒りもその目にはない。彼の頭の中にあるのはただひとつ。
「ダンク。もう一回」
バスケットボールをこよなく愛するこの少年の目にも恐らく、花道が空を駆けているように見えたのだろう。晴子の目にそう映ったように。そして、脇から見ていた晴子とは違い、彼はきっと特等席からそれを見たのだ。体育館の扉の四角を最高の額縁として。
「っざけんな!! 何であたしがパンツ見た男の言うこと聞かなきゃなんねーんだ!」
「見たじゃない、見えた」
「変わんねーよ!! っ……行きましょ、ハルコさん!」
フン! と花道が流川に背中を向ける。少し遅れて翻った髪が少年の学ランの胸に柔らかくぶつかって、彼はその場所を何となくという手つきでおさえた。ブレザーを拾い晴子の腕を掴んだ花道は勿論見ていなかった。
「――おい、」
「っんだよ、しつけーな」
諦めの悪い声に振り返る。その胸目掛けて流川はボールを投げた。自分目掛けて一直線に放たれた鋭いパスを、花道は思わずキャッチしてしまう。
「……名前は?」パスと同じくらい真っ直ぐな目。
「誰が教えるかバーカ! キツネ野郎!!」
振りかぶった左手で流川の顔面目掛けてボールを投げる。二度目のそれを、彼は額ではなく手で受け止めた。
「ちょっと、さ、桜木さん、そんな急がないでーっ!」
花道に引きずられるようにしてその場を去った晴子の声が叫んだ名を、体育館にひとり取り残された流川少年はしっかりと記憶に刻んだのだった。
――そして翌日。
「桜木花道。ついて来い」
昨日同様、否、昨日とは種類の異なる緊張に満ちた一年七組の教室、窓際の一番後ろの席に、件の男が現れる。花道よりも背の高い長身に、切れ長の涼しい目、けれど熱い瞳。
「お、……まえ、……」
「……流川楓」
桜木花道と流川楓――。これが、波乱万丈ののちに結ばれることになるふたりの、運命の出逢いだった。
