Fly girl, in the sky 第二話 - 1/2

決戦の放課後

「――桜木花道さんっていってね、すっごく背が高くて、手足もすらーっと長くて。あたし思わず、バスケットはお好きですか? って聞いちゃった。そしたら、大好きです! って……バスケは初心者なんだけどー、とにかくすごいのよ。ダンクしようとしてジャンプしたら……ね、どうなったと思う?」
「うーん。さあ?」
いつも観ているテレビ番組をそっちのけにして兄の部屋に上がり込み話し始めた晴子の興奮に上擦る声を、赤木剛憲はトレーニングの手を休めることなく聞いた。あんなに大好きなバスケットボールからプレイヤーとして距離を取ることを選んだ妹を、兄として不器用ながらも心配していたのだが、どうやら自分ひとりで決着をつけたようだ。晴子がにこにこ顔で続ける。
「飛んだのよう、ジャンプじゃなくて、フライ! 空を飛んだ――それ位高く長く飛んだの。失敗しちゃったんだけどね、」
その光景を思い出したのか、晴子の目がきらきらと輝き天井を見上げる。お日様を見上げるような目だ。赤木はダンベルを置いて汗を拭い、タオルの陰から彼女の見上げる視線の先を目で追った。
「あたし思ったわ。スゴイ才能の持ち主を見つけたぞ、って」
「才能だけでバスケができるか」
「そうだけど。でも性格も素直だから上達も速そうよ」
「……根性ありそうか?」
「うん。根性もあるわよ!! 桜木さんならゼッタイ、スゴイ選手になるんだから!」
「そうか……」
このたった三文字に乗せた思いの丈、その切実な悲願と決意のほどに、自分の淡い夢に掛かりきりの妹は気付いていない。晴子は無邪気な声で言った。
「明日、一緒にバスケ部見学しましょうって約束しちゃった」
正確には、明日こそ、だ。
「そうか……気合を入れなきゃな」
「いいとこ見せてね、お兄ちゃん。怖がらせないでね」
「さあな。……今年はお前のお気に入りの富中の流川も入るだろうし、引き締めて掛からねば」
「えっ」
「今年こそ……、」
流川の名前に顔を赤くした晴子にではない、鍛え抜いた自分の肉体に聞かせるように赤木は呟く。彼の続けなかった言葉の先を見つめながら、晴子は頷いた。赤木も頷いて、それから照れ隠しのように妹が胡坐をかいて座る椅子を押して揺らした。
――この、のどやかな兄妹の会話に含まれた小さな違和感。常ならば可愛らしい勘違いで済まされるささやかなすれ違いがやがて登場人物四人を巻き込んで大きくうねり、更には湘北高校バスケットボール部の運命さえ変えてしまうことを、この睦まじい兄妹はまだ知らずにいる。

さて、桜木花道である。彼女は放課後のチャイムの直後に現れた少年・流川楓に連れ出され、人波のまるでモーセの海の如く割れゆく廊下を歩いていた。向かう先は恐らく屋上か体育館裏だろうが、正しいところは分からない。綺麗だが冷えた横顔はとにかく無口で、花道に流川楓と名乗った後から閉じたきりだ。――怒っているのかもしれない。昨日このお内裏人形のように端正な顔面にバスケットボールを叩きつけたのだから。
(……あいつら、)
その辺りの事情を花道の口から聞いて知っている筈なのに、コソコソと後をつけてくる男たち三人のにやついた気配が煩わしい。三人なのは丁度流川の来訪時に席を外していた水戸が不在である為だが、もしここに彼がいたとしても、きっとニヤニヤ顔がひとつ増えるだけだっただろう。
「おい、おめーら! 見世モンじゃねーぞ!!」
振り返って叫ぶと、大楠が泣き笑いの顔で、
「バカヤロー、これが見世モンじゃなくって何だってんだ」
と言った。野間と高宮が後に続く。
「よかったなー花道、オトコノコからの呼び出し。夢だったじゃねーか」
「お手て繋いで帰れるぜー!」
睨みつけると、がははと笑うデリカシー皆無の男たちの代わりに、近くにいた生徒らが教室やトイレの陰にサッと隠れた。
――昔から、呼び出されるのは喧嘩の合図だった。下駄箱のラブレターに憧れても、代わりに入っているのは筆文字の果たし状。果たし状って何だ。でも、それが花道の一五年だった。高校入学早々の呼び出しもこれでは、先の三年が思いやられる。こんなに目立ってしまっては、告白やその先、憧れの登下校も夢のままで終わってしまうかもしれない。週末のピクニックデートも、映画館も。
「ああ……」
花道の涙混じりの溜息を聞いて、流川の目がちらりと彼女の方を向いたが、しかし彼女は、それでもひとりで来るだけこいつはマシかもしれない、と気分を切り替えるのに必死で彼の視線に気付かなかった。
その後も無言を貫いた流川の足が止まったのは、屋上でも体育館裏でもなく、昨日と同じ体育館だった。彼は肩に下げていたスポーツバッグをどさりと下ろし、中をごそごそと漁ると、そこからバスケットボールを取り出した。
「ん」
昨日のような使い古しのしまい忘れではない。使い込まれているが丁寧に手入れされたボールが花道の眼前に差し出される。が、勿論彼女は受け取らなかった。意味が分からなかったからだ。求められていることは何となく分かる。分かるが、理由が分からない。分からないから彼女は不動のまま、何だよ、とだけ言った。流川の切れ長の目がちょっと丸くなる。驚いたのだろうか。その表情にむしろ花道の方が驚いた。
「ボール」
見れば分かる。流川の目も、分かるだろう、と訴えている。こいつは言葉より目の方がおしゃべりかもしれない。花道は直感した。その若干の間を、流川は何を勘違いしたのか、薄い唇でこれ見よがしの溜息をついてから、再び鞄を漁った。取り出したのはネイビーの長ズボン。
「そーゆーことじゃねー!!」
思わず髪を逆立て突っ込む花道に、流川の頭上にはてなが浮かぶ。コントのようなやり取りに、入口の向こうで笑い声がドッと溢れた。花道は無視し、その分の憤りを流川にぶつけた。
「お前おかしいよ。昨日会ってからひとつ覚えみてーにダンクダンクって、何なんだよ」
「……」
黙り込む流川の黒々とした瞳が、今言葉を探しているのだと花道に雄弁に伝える。花道は待った。
「おめーが、」
「む」
「おめーがキレーだったから」
「…………は?」
花道の背後、入口の向こうで静かな興奮がみなぎっている。瞬きひとつも許さないという緊張感に満ちたヒソヒソ声が狭い入口の音の反響でぼやけて漏れた。おい、こりゃヤベーぞ。洋平呼ばなきゃ、
「き、き、きれい?」
男たちが慌て駆けだす足音も、花道の耳には届かなかった。彼女の丸い小さな頭の中で、先の言葉だけが巡り反響する。流川はコクリと軽く、しかし確かに頷いた。
「ボールを持ったおめーが空を飛んで、それが空気に乗っかるみたいに自由で、キレーだった」
言葉と、それが嘘じゃないと物語る真剣な瞳を正面から受けて、花道の顔に血が上る。綺麗だなんて、そんなこと初めて言われた。
「もっかい見たい」
この言葉に、とうとう花道の心は動いた。動かされた。誰かに何かを期待され求められることの少なかった彼女の手が、流川の差し出したボールを受け取る。それからズボンを。
「い、一回だけだかんな。それで勘弁してくれよ」
「……」
長いスカートの中に借り物のズボンを穿いて、ブレザーを脱ぐ。屈伸運動をする背中に流川の熱い視線をビシビシ感じて、花道の背中もじんわりと熱くなった。
昨日と同じ、ゴールの真正面に立ち、バシン、掴んだボールを一度跳ねさせる。落ち着かない心臓を静めたかった。
手の中に戻ったボールをしっかり掴んでゴールを見上げると、やはり昨日と同じように開け放った扉の向こうが見えた。花道の為に開かれた世界から、春の匂いを乗せた風がさらりと吹き込む。その風に乗るように花道は一歩を踏み出した。
「――花っ!!」
そこに、世界の向こうから彼女を呼ぶ声がした。ただひとりだけがふたりきりのときにだけ呼ぶ愛称。幼馴染の珍しい焦り声。花道が視線を向けると、声と同じ切羽詰まった顔をした水戸がこちらに駆け込んでくるのが見えた。そして、大丈夫か、と叫んだ声の後ろから、小さく上がる高い声――、
「ひゃあっ!」
――ハルコさんの声だ!!
花道は反射的に声の元を探す。と、外扉に手を掛け息を弾ませた水戸から少し距離をあけた遠くの方で、誰か身体の大きな男が晴子の細い肩を掴んでいるのを見つけた。花道でさえ見上げるような、分厚い身体をした大男だ。学ランを着ているということはこの学校の生徒なのだろが、可憐な晴子の隣に立つとまるで別の生き物のように見える。獰猛な野獣、ビルを踏み潰し歩く怪獣。キングコングやゴジラ。彼女は叫んだ。
「テメー! ハルコさんに何してんだ!!」
花道は飛び上がって身体を捻り、その大きな的目掛けてボールを投げた。怒りを込めた全力投球は昨日より強く速い。
ボールは鋭く風を切りながら真っ直ぐ男の元へと駆け、彼の額に炸裂した。バチーンッ! と、風の抵抗を受けたとは到底思えないような激しい音が辺り一面に響き渡る。それから、落ちたボールが地面で跳ねる、テン、テンという小さな音が後に続いた。
「ハルコさん、今のうち!!」
花道が両手を広げて叫ぶ。男の右手は既に晴子の肩から離れ、地に落ちたばかりのボールの方に伸びている。動くものを追う、動物の習性かもしれない。
「誰だぶつけてきやがったのは……」
地を這う声は地獄の亡者も逃げ出す響きだが、花道の耳には届かない。それだけの距離があった。がしかし、男の声は周囲に集まり始めた観衆を震え上がらせた。
「しかも……バスケットボールじゃねーか……」
「ボール……、」
流川の声だ。この声は花道にも届いた。俺のボールで何てことを、とでも言いたいのだろう。自分を見下ろす瞳を睨め上げ彼女は荒々しく返す。
「うるせえっ! ボールが何だってんだ!」
「ダンク……」
ダンクしてくれんじゃねーのかよ。
「ダンク⁉ ボールより玉入れより女の子の身の安全だろ!! だいじょーぶですかハルコさん! はやくこっちへ!!」
ボールより玉入れより。正論だ。しかしこの言葉がかの野獣の怒りに火を点けた。
「玉入れだとォ!! お前今バスケットを侮辱したな⁈」
地面を揺らす激しさで男が火を噴くのを、花道は、何が侮辱だこのゴリラ野郎! と言い返す。
「ゴリッ……⁉ 貴様もう許さんぞ!! そこに直れ!!」
いよいよ地を割る勢いで男が花道の方へと迫る。と、それまでふたりの間でおろおろしていた晴子が、男の太い胴にしがみついた。
「ああっ! ハルコさん!!」
がしかし、少女の抵抗をものともせず、キングコングは突き進む。晴子はずるずると引きずられながらも声を張り上げた。
「さ、桜木さん逃げてーっ!!」
桜木。その言葉に男の足が止まる。と、生まれた一瞬の隙を見逃さず、晴子は身を翻し男の前で両手を広げた。キングコングと美女。大魔王クッパとピーチ姫が真正面から対峙する。
「――桜木、あいつが桜木花道か⁉」
晴子、と。彼女を呼び捨てにするゴリラに花道が怒り声を上げる。がしかし燃える目をした男の耳に、今度の声は届いていないようだった。男が晴子を見下ろし言う。
「お前、女子を俺に薦めたのか⁉ 背が高いだの空を飛んだだのと期待を持たせて……全国制覇を目指す俺に向かって、冗談でそんなことを言っていいと思ってるのか⁉」
「冗談なんて、」
怒るというよりは叱るというような口ぶりで放つ言葉だが、これには花道も面白くない。
「おうゴリラじじい! 女子が何だってーんだよ。お生憎様、こっちは生まれたときからずーっと女だ! 黙って聞いてりゃ冗談だ何だとシツレーな。女子にバスケはできねーってか? 全国制覇が。ああ?」
勝手に勘違いされて勝手に期待されて、男の子じゃなかったら失望されて怒鳴られるなんて理不尽にもほどがある。と、そこに背後から思わぬ援軍。
「アンタ、性別でバスケすんのか?」
振り返る。流川だ。今しがた花道を見つめていたのと同じ熱い目で真っすぐにゴリラ男を射抜いている。彼は尻ポケットから折りたたんだ一枚の紙を取り出し、ゴリラに向けて掲げてみせた。
「コレ」
花道は書かれた文字を目で追った。

入部届 一年一〇組二二番 流川楓
部活名 バスケットボール部

「バスケットボール部。何の冠もない、ただのバスケ部」
そうだ、晴子も言っていたではないか。湘北には女子バスケット部はないと。ならばそこに男も女もないではないか。ただ女だというだけで入れない場所があるなんて。開いている扉を一方的に閉ざされるなんて、おかしい。おかしいのだが……、
「だったら見せてもらおうか、玉入れ遊びと侮辱したからには俺からボールを奪うくらい訳ないだろう、桜木花道!!」
――何だかおかしなことになってしまった。