ハナアラシ
体育館に向かう回廊で見覚えのある長身にボサボサ頭の後ろ姿を見掛けた花道は、つい身体が動いてしまった、という勢いで右手を振り上げ、それから、
「おい、キツネ」
と声を投げた。制服の背中が振り返る。キツネと呼ばれた少年はやはり流川で、彼は涼しげな目を眠気で重くして、花道――正確には彼女の放ったジャージ入りのビニールバッグの残像――を見た。大きな青白い手が花道からの乱暴なパスを受け取る。
「……それ、アリガトよ。じゃあな」
面白くねー、という心の声をお礼に乗せた花道は、長い足の大股で流川を追い越す。すれ違いざま、まだ怒ってんのか? と平坦な声で問われ、彼女は唇をツンと尖らせた。流川は尋ねた割に答えを期待していなかったのか、それから特に何も言わず、植物のように黙ったまま、白い体操着をキャンバスにして揺れる鮮やかなポニーテールの背中を追った。
まだ怒ってんのか? 流川の言葉の指すところは、最悪な出逢いについてのことだろう。空を飛んだ花道の足の下に流川がいた。それはもう仕方ないことで、恥ずかしいが時間が経てば怒りも薄れた。だからこれは怒りじゃない。
――花道は流川が嫌いなのだ。もっと言えば、今日のお昼に嫌いになったのだ。
一緒にお昼はいかがですか? とランチボックス片手に花道の教室までやって来た晴子を連れて屋上に出た。当たり前のように着いて来ようとする軍団たちを追い払い、広い屋上でふたりきりのお昼ごはん。遮るものの何もない空は高く、青く。風に乗ってゆっくりと通り過ぎる春を見送るような穏やかな時間は、花道の心を軽く、高く弾ませた。
「わ、ハルコさんのお弁当、カワイイですね。サンドイッチだ」
「桜木さんのお弁当もおいしそう。おにぎり、俵型なのねぇ」
「中身で変えてるんス、俵はたらこ、三角はシャケって。そしたら毎日おにぎりでも、ちょっとは飽きない気がするでしょ?」
「桜木さん、お弁当自分で作ってるの?」
お料理上手なのねぇ! と手放しで褒められて、花道は嬉しくなる。同性の友達とのランチは、子供の頃からの夢だったのだ。恋人との登下校と同じくらい憧れていた夢。それがこんな素敵な形で現実になるなんて!
お弁当の話、趣味の話。舞い上がった気持ちのままに、花道は料理が好きなことを晴子にひっそりと打ち明けた。
中学生の頃、女の子たちに怖がられて家庭科部に入れなかったこと。いつかお付き合いする人にお弁当を作ってあげたいこと。残念ながらその日はまだ訪れそうにないこと。
「不思議ねぇ。桜木さん、こんなに素敵で話しやすいのに」
あまりにけろりと、当然のことのように言われてしまって花道は驚く。
「そ、そんなこと生まれて初めて言われたっス」
すると晴子は、
「あら、じゃああたしが初めて気付いたのね。――フフ、嬉しい」
と言って、花道を更に驚かせた。
「お付き合い、かぁ。あたし、昔っからバスケットばっかりで、そんなこと考えたこともなかったなぁ」
「……!」
恋人、いないんスか? ハルコさん、こんなに素敵なのに。
彼女のように軽く口にすることができずに、花道は目だけでそれを訴える。勿論晴子には伝わらない。
「そうだ、お付き合いといえば……」
ハムときゅうりのサンドイッチを食べ終えた晴子が、おしぼりで手を拭きながら何気ない声で言う。
「水戸君は、桜木さんの恋人じゃないの?」
「よ、洋平?!」
「だって彼、凄かったのよ? お友達が教室に来て、『花道が大変だ!』って言ったとき。それまでにこにこ話してたのに、教室を飛び出して、もう物凄い速さで」
それで、あたしも慌てて追いかけて、そしたらつんのめっちゃって、お兄ちゃんが支えてくれたんだけど……。
今になってようやく事の発端を知った花道だが、そんなことより聞き捨てならないのは恋人という単語と、単語に結びつけられた親友の名前だ。
「洋平はそんなんじゃないっス! あいつはただの幼馴染で親友ってだけで、……ハッ! まさかハルコさん、洋平のこと」
「え?」
「やめた方がいいです! そりゃアイツは人あたりもいいしカッコいいけど、コレって決めたもの以外はいつでも放り出せるヤツだから、だから悲しい恋になるっていうか、」
「そ、そうなの……、でもあたし、そんな風に気になったんじゃなくって、ただ桜木さんと仲がいいんだなぁ、って思って」
膝に乗せた弁当箱をひっくり返す勢いで捲し立てる花道の剣幕に、さすがの晴子も驚いたようだ。
「そ、そーっスか、ならよかった」
あからさまにホッとした花道は、ごちそーさまでした、と両手を合わせ、弁当箱をクロスで包む。
「スゴイ慌てよう。びっくりしちゃった」
「スンマセン」
「うふふ。……決めたもの以外はいつでも放り出せる、って、まるで流川君みたいだなぁ」
「ルカワ?」
唐突に飛び出してきた男の名前に、花道は手を止める。
「そういや、知り合いなんスね。何か聞いたことある名前だなーって思ってたけど、そっか、ダンクの男か」
「知り合いって、そんなんじゃないわよぅ! 流川君はあたしのことなんて知らないのよ。……流川君はね、富ケ丘中のバスケット部だったの。あたしは四中で……近かったからよく練習試合とかがあって。いっつも四中は流川君を徹底的にマークするんだけど、どうしても押さえられなくて連戦連敗。それで、とうとう流川君ひとりに三人のマークをつけたの」
「一人に三人……!!」
「バスケットは一チーム五人だから、たった一人に三人もマークにいっちゃうと、残りの四人を二人で守らなくちゃならなくなっちゃうのよね。そうまでして流川君を止めようとしたんですよ。――ところが……」
花道は息を呑んだ。
「流川君はその試合で三人のマークマンの上から四本のダンクを決めて、四中を蹴散らした!! ――その試合、彼は一人で五一得点をあげたの。その日の流川君の姿……、今も目に焼き付いてる……」
そう言って恥ずかしそうに目を伏せた晴子の表情に、花道はギクリとした。それは花道がドラマや漫画で見て以来、ずっと憧れていたもののひとつだ。同性の友人との打ち明け話――、
「ま、まさかハルコさん、流川のことを……?」
聞きたくない、と思いながら訊ねてしまうのはどうしてだろう? 全くもって矛盾している。
「片思いなの……」
「よーし、新入部員は一列に並べ!!」
太く張りのある声が体育館中に響き渡る。中学校を卒業したばかりの子供たちはその迫力に竦み上がり、風の速さで整列したが、昼間のことを思い出し落ち込んでいた花道は赤木の号令を聞き逃した。
「オマエもだ桜木花道!!」
「ふぬ!?」
耳もとで突然怒鳴られ、花道は飛び上がって驚く。
と、赤木の隣にいた柔和な雰囲気の青年が、まあまあ、と彼を取り成しなだめた。
「練習の前に、自己紹介だ。ああ、そんな緊張するな。これから一緒に活動していく仲間なんだから。な?」
優しい顔と優しい声。眼鏡の奥の目も優しい。スポーツマンというより、近所に住むおにいさんみたいな感じだ。考えながら一年の列に加わる花道は、無意識に自分の背が少しでも低く見られるようにと背の高い部員の隣に並ぶ。
「ぬ」
長身の花道よりも背の高い一年生といえば、流川楓ただひとりだ。
黒々とした、意思の強そうな目が花道を真っ直ぐに射抜く。
花道は、フン、とそっぽを向いたが、その頬にも流川の視線の矢が刺さる。
「桜木花道!! ちゃんと話を聞かんか!!」
「な、なんだよ」
「まあまあ、赤木、あんまり怖がらせるなよ」
再び理不尽に怒鳴られ花道は呻く。と、体育館の外から聞き覚えのある笑い声の不協和音が届いて、彼女はまたも上級生から視線を外し、声の方を見た。
「アイツ大丈夫かよ!」
「目の敵にされてんなぁ」
やはりという、軍団の冷やかしである。腰を屈めて足元の小窓から体育館を覗き込む男たちは、何て友達甲斐のある奴らだろう! 花道は拳を握る。すると、ひらひらとこちらに手を振る水戸の背中から、晴子がひょっこりと顔を出し花道に向かって手を振った。
花道は、ハルコさん!! と思わず叫んで手を振り、今度こそ赤木に殴られた。隣で流川は溜息をついていた。
「藤園中出身、桑田です!! 一六二センチ、五〇キロ、中学時代はフォワードでした!」
よろしくお願いします! と頭を下げる桑田少年に、赤木が手元のリストに何か書き込みながら言葉を返す。
「うむ。高校ではポジションはガードになると思う。ドリブルやパスの練習をしっかりやっていかんと生き残れんぞ、ガンバレよ」
打って変わって理知的な声に、言われた桑田も元気のいい返事をする。
赤木は頷き、よし、次、と促した。
「富ケ丘中出身、流川楓。一八七センチ、七五キロ。ポジションは別に決まってなかったです」
聞き様によっては不遜とも取られかねない流川の言葉に、既に挨拶を終えた一年生たちがざわつく。
「ポジションは一人で全部やってたぜ、アイツは……」
「うん」
「そんな感じだったよな」
晴子の言葉を裏付けるようなざわめき。確かに彼は有名人であったようだ。
赤木も彼には一目置いているのか、他の新入部員たちには聞かなかった質問をする。
「おい流川、シュミとかはあるのか?」
「シュミ……」
そんなこと考えたこともなかった、という風にちょっと目を見張った流川は、細い顎に指を添えて考え込む。
おいおい、趣味なんて自己紹介の定番だろう? 悩むことなんてあるかよ、と花道は思ったが、この能面みたいな男の趣味が気になるといえば気になったので、彼女は言葉の続きを大人しく待った。
「寝ることかな……」
「む、無趣味なヤツだな!」
あまりに淡泊な返答に肩透かしを食らった花道は、彼の持て囃されぶりが気に入らなかったのも相俟って、思わず声を張り上げる。飛び出した言葉は留まることを知らない。
「……」
「つまんねー男だな、無表情だし」
「次」花道のツッコミを超えた悪口を赤木が切り上げる。
「そっか! 寝すぎて顔が固まっちゃったんだな、きっと!」
「次!!」
「んもうっ! 桜木さんったら……」
またも怒鳴られ、外からは笑われ、呆れられ。花道は、いかんいかん、と背筋を伸ばした。流川は嫌いだが、晴子から嫌なヤツだと思われるのは嫌だ。
「桜木花道!! 和光中出身、一七四センチ、六三キロ!!」
「いや、嘘つくなよお前!」
「明らかにもっと身長あるだろ?!」
「ふぬっ!?」
「角、お前ちょっと桜木の隣に並べ!」
「挟め挟め!!」
「俺と同じくらいはあるよなぁ」
花道の声にワッと湧き上がった部員たち。角と呼ばれた素朴で人のよさそうな青年と、先ほどの眼鏡の青年の間に挟まれ、周囲を上級生に囲まれ、更には赤木にまで背筋を伸ばせ! と怒鳴られて、花道はたじろぐ。何というチームワークだ。
「お、横暴だあっ!」
一八〇センチメートルと一七八センチメートルの男ふたりの間に立たされた花道は、結局一七九センチメートルと結論付けられた。べそをかく彼女を、頭ひとつ小さい先輩が慰める。痩せ型で眉の下がった、すっきりとした声の青年だ。
「背が高いのはバスケットでは有利なんだよ。勿論デメリットもあるけど、それだって練習と努力次第だ」
「そうそう、身長は努力じゃ伸びないんだから、羨ましいよ」
相槌を打つのは彼より僅かに背の高い、輪郭の線の柔らかい青年。ふたりはそれぞれ、安田と潮崎といった。それに一八〇センチメートルの角田と入院中のもうひとりで、二年生の部員全員らしい。
「三年の木暮だ!」
「三年、主将の赤木剛憲だ。ヨロシクな!!」
三年生はたったのふたり。赤木がキャプテンということは、木暮が副キャプテンなのだろう。
「ほう。今年はほとんどがバスケ経験者だな!」
「ほんとだ、そりゃあ助かるな。ウチは人数少ないから」
ほとんど、という赤木の言葉に僅かなささくれを感じたのは花道の気のせいだろうか? まさか自分以外の全員がバスケット経験者だとは思っていなかった彼女は、こいつは全く嫌なヤローだぜ、と鼻息を荒くついた。――と、
「うんせ!」
ガラガラと派手な音を立てて、体育館の扉が開いた。どうやらまだ部員がひとりいたらしい。皆が音の方に視線を向ける。
「どーもスイマセン、おくれちゃって!! あ、新入生入ったんすかー!!」
「おう、おせーぞ彩子」
彩子と呼ばれた女性は、主将である赤木に叱られても特に気にした様子もなく、荷物を下ろして新入生たちの正面に立った。皆の視線が彩子に釘付けになる。
花道は、何だよ、他にもいるんじゃねーか、女子部員、と考えてから、他の一年生と同じように彼女の姿に釘付けになった。
「アタシ、マネージャーの彩子! 二年ですヨロシクー!!」
彩子は華やかで大人びた容姿の、快活な女性だった。晴子が清楚で可愛らしいチューリップのような美少女なら、彼女は生命力に満ちた、大胆なハイビスカスのような美女だ。白いTシャツにタイトなスパッツ姿はグラマラスな彼女の魅力を一層引き立てている。
彼女は気後れする一年生たちひとりひとりを叱咤してから、相変わらずひとりぼーっと突っ立っている流川の姿を見とめ、気安い様子で声を掛けた。
「おっ、流川ー! 入ったかあー!」
「チワス」
「まーた背のびたんじゃない!?」
ふたりはどうやら同じ中学校出身らしい。彩子は、皆あんたに期待している、と肩を叩いて流川を激励し、余計なことを言うな、と赤木に叱られた。彩子の目が花道の方に向く。花道は背筋を伸ばし、初めまして、桜木花道です、とドキドキしながら挨拶の準備をした。が、
「あーっ桜木花道!!」
「な、なぜあたしの……」
「見てたわよあの勝負! おもしろい子ねー、あんたって!」
赤木との勝負を見ていたらしい彩子は、アタシ、あんたのこと大好きになっちゃった! と嬉しそうに言い、花道の首に両手を回すと高い所にある頬にチュッチュと何度もキスをした。
「……!!」
これには花道も硬直した。同性の友人のいなかった彼女には勿論同性の親しい上級生もおらず、柔らかな女性の唇は、いかつい男たちの拳より余程刺激的で、花道の心に大いなる衝撃を与えた。
「これから部活がますます楽しくなるわ。ヨロシクね!!」
「ハ……ハイ……」
リップの付いた頬を押さえ、涙声で答える花道の顔は真っ赤で、勝負のときの大胆不敵な様子を知る他の部員は、あまりのギャップに目が点になる。
彩子だけがニコニコと、かわいいわねー、と笑っていた。
「練習を始める前に、まず最初にはっきり言っとくことがある」咳払いをして赤木が言う。「今年の目標は全国制覇だ!! 厳しい練習になることは覚悟しとけ!! いいな!!」
「!! おう!」
あまりの気合の入りように、花道も我を取り戻して大声を張り上げる。両隣で流川と彩子が頷いた。その一方で、横に並ぶ一年生たちは、ぜ、全国……!? とどよめいている。
バスケットどころかスポーツの初心者である花道は知らないが、神奈川県といえばバスケットボールの強豪校が集う地域である。そしてそれら強豪の割合はやはり、公立よりも全国から生徒が集まる私立の方が圧倒的に多い。湘北高校はそう新しい学校ではないが、創立以来一度もインターハイに出場したことがない。謂わばバスケットボール弱小校だ。経験者である少年たちはそれを知っているから、大言壮語に慄いたのだった。
「湘北ーー」
「ファイッ オー!!」
「オーッ!!」
赤木の掛け声に一年生を含む部員が応え、練習が始まった。
身体を温めるための外周ランニングとストレッチ。彩子はコートの外で備品や救急箱の用意をする。
花道はコートの中の唯一の女子部員だったが、むしろ男子部員たちより余程元気に動き回り、彼らを驚かせたり呆れさせたりした。
「おーし、スクエアパス!!」
「おう!!」
「ハイッ!!」
準備運動が終わって、いよいよバスケット部らしい練習に移る。花道も分かっていないなりに胸を弾ませながら、四方に散り散りになる男子たちの一団に加わろうとした。が、赤木がその首根っこをがしりと掴んで捕まえる。
「ぬ……!?」
まるで猫の子のように扱われて花道はビックリした。このまま持ち上げられたらひとたまりもない。
「彩子ー!! おまえ、桜木をたのむ。初心者だから基礎からみっちり! ヨロシクな」
「はい!!」
赤木に呼ばれた彩子が、ポイと放り投げられた花道の手を引いてコートの外へと連れ出す。経験者たちの邪魔にならないよう、白線の外側に追い遣られた彼女に、彩子はボールを手渡し言った。
「あんたは基礎の基礎、ドリブル練習」
腰を低く落として、ボールも低く。そう、この姿勢。と、マネキンのポーズを組み替えるみたいに手足や腰に触れられ、花道の身体はあっという間にドリブルポーズの人形になる。彩子はひと仕事終えたという様子で彼女の後ろ足のふくらはぎを見下ろし、やっぱりあんた、いい身体してるわね、と言った。
「きれいな筋肉の付き方してるし、タッパもある」
何センチ? と聞かれ、花道はまたも、一七四センチです、と嘘をついた。
彩子はどこから出したのか、ハリセンで花道の尻を叩いた。
「嘘つくんじゃない。木暮先輩くらいだから、一八〇弱くらいでしょ?」
「う、うぅ~~~~」
「腰が上がってきてるぞ、桜木花道」
年の離れた妹を嗜めるような声で彩子が言う。仕方ない子ねという言葉の内側に確かな好意の欠片みたいなものが透けて見えて、花道は首だけを彩子の方に傾けた。腰を落とした姿勢だから、見上げる形になる。
「あんたは自分の背が高いのが嫌なのかもしれないけど、スポーツをやるなら自分の身体に嘘をついちゃ駄目よ。身体は使い方次第で長所にも短所にもなる。その為には、まず自分の肉体をきちんと理解しなくちゃ」
あんたの場合、背が高いからゴールポストまでの距離が短いけど、腰の位置が高い分、ボールが地面から離れやすい。だから思いっきり腰を落として、ドリブルの位置を低くする。理屈を嚙み砕いて分かりやすく説明する彩子の言葉は、曲がったり逸れたりすることなく真っ直ぐに花道の胸に届いた。
「……」
目の前のコートの内側では、そんなこととうに知り尽くしている部員たちがパスを回したり、反対にボールを取り合ったりしている。
彩子は首から下げたストップウォッチを見て、はい、オッケー、と言った。
花道は腰を上げて言った。
「アヤコさんはあっちの練習に加わらなくていいんスか?」
「え?」
「いくら上手だからって、新入部員の世話をひとりに押し付けるなんてひでーよな、ゴリのヤロー」
「ちょっと、桜木花道、あんた何か勘違いしてるみたいだけど、あんたの面倒見るのもアタシの立派な仕事よ?」
「え?」
「言ったでしょ、マネージャーだって。――と、今度は逆の足前に出して。ん、そう……聞いたことない? マネージャー」
「あるけど、何してるのかは知らねー。エイゴ苦手だし」
「あっはっは、あんたよくここ受かったわね。マネージャー、マネジメント。覚えときなさい、授業で出るから……マネージャーの本来の意味は、経営者とか管理者。つまり、団体が上手く回るように取り成す人、ってこと。具体的に何をするかはスポーツの種類や団体によって違うけど、うちでは試合の記録を取ったり、練習のタイムキーパーをしたり、怪我人や急病人の手当てをしたり」
それから、あんたみたいな素人に基礎を叩きこんだり。ラッキーよ、あんた。この彩子さんをひとり占めできるんだから。
と、長い睫毛でパチン、とウインク。こういう仕草が様になるのは洒脱で洗練された大人の証だ。
「アヤコさん、カッコいーな。ゴリよりも偉いんじゃねーの?」
「オホホ。――なんてね。受け持つ領分が違うのよ。コートに立つ赤木先輩は凄いわよ。あの人がゴール下にいるだけで、湘北は一本筋が通る。正に大黒柱ね」
「じゃあ、アヤコさんは〝縁の下の力持ち〟か」
「嬉しいことを言ってくれるわね。お礼にもう三〇秒追加しちゃう。ほら、腰が上がってきた!」
「ぬっ!?」
和やかに談笑しながら基礎練習に打ち込むふたりを、コートの中にいる他の部員たちが苦笑混じりで眺めている。その向こう、ドアの外では、晴子が優しく目を細め、練習に励む者たちの姿を見守っていた。
「頑張ってね、桜木さん」
赤木は練習初日だから疲れが残らないよう早めに切り上げるぞ、と言ったが、時計の針が真っ直ぐ縦に伸びる頃には、あれだけフレッシュだった一年生たちは皆ぐったりと疲れ果て、文字通り地に落ちていた。水分が抜けて干からび小さくなった少年たちの中で、縦になっているのは花道と流川のふたりのみ。どうにか掴んだ清掃用のモップが体育館のそこここでまるで墓標のように斜めに立っているのがあまりにもシュールだった。
桑田の墓標の隣、流川は他の部員たちと同じように汗まみれなのに相変わらずの涼しげな顔で、首に下げたタオルで額を拭っている。彼の左手のモップはきちんとモップの形をしていた。その、赤いタオルの隙間から、彼の黒い目がこちらを見ているような気がした。
「桜木花道、いらっしゃい」
「?」
花道は視線を振り払うように振り返った。帽子を脱いだ彩子がこちらに手招きをしている。自分のモップを片付けた花道は彩子の方に向かう。
「あんた、荷物は? 更衣室の場所教えてあげる」
「更衣室?」
部室じゃねーの? ステージの上に置いた薄い学生鞄と制服を入れた体操着袋を掴んで、花道は首を傾げる。
彩子は大きな目をまん丸にして、あんた、それどこで着替えてきたのよ? と聞いた。
「え、部室使ったの?」
「六限、体育だったからそのまま来たっス」
「なるほど」
ゾンビのような一年生と、見るに見かねて後片付けを手伝ってやった二年生と一緒に体育館を出る。体育館と校舎を繋ぐ廊下部分が部室棟で、バスケットボール部の部室もその並びにある。更衣室の他、備品置き場として使っているらしい。
「うちはそう強くないし、部員も多くないし……だからって訳じゃないけど、アタシが入るまでマネージャーがいなかったのよね」
並んで歩く彩子の向こう、閉じたドアの中から微かに笑い声が漏れ聞こえてくる。男子卓球部、女子卓球部、ラグビー部、今日はどこもはやめの閉店のようだ。バスケットボール部。一緒に歩いていた部員たちが立ち止まる。彩子も立ち止まって、しかしその手は廊下の奥を指差した。
「で、アタシたちはあっち」
文化部の部室の並びを通り過ぎ、階段の奥の突き当たりにあるのは選択G教室。選択科目の為の教室で、普段あまり使われていない部屋のひとつだ。隣接した小部屋のドアには、選択G準備室、とある。
「男の子ばっかりのとこで着替えるのもお互い気まずいでしょう? かといって教室やトイレで着替えるのも嫌だし。だから先生に相談して使わせてもらってるの。たまに授業で使うときもあるんだけど」
今日みたいに、と言った彩子の横顔。細い眉を僅かに下げた表情は何となく作り物めいていて、ここで少し困った顔をするのだ、とはじめから決めているように花道の目には映った。
――何かそれ、ヤだな。
と、花道は思った。〝それ〟が何を表すのか。敏感さの割に心を表す言葉を多く持たない彼女に、彩子の表情を言い換える力はない。けれど彼女の目は確かに、その微笑みの曲線の中から諦観を感じ取ったのだった。
「何かちょっと、すげームカムカする」
「え?」
花道の幼稚な物言いを冗談と受け取ったのか、彩子は、ちょっとなのか凄いのか、どっちかになさいよ、と軽口を返す。しかし言葉は花道に届かず、彼女は彩子の姿越しに整然と並ぶ部室のドアを見た。軽音楽部、演劇部、ラグビー部、バスケット部。階段とドアがよっつ。たったそれだけの距離を、どうしてそんな遠い目をして見ているの?
「だって、最初に相談すんならセンセーじゃなくってゴリじゃねーか。アヤコさんひとりで呑み込んだり、ガマンする必要なんかねーよ」
そう言って花道は振り返ると、今来たばかりの道を戻り歩き出した。白い体操着の背中で赤いポニーテールが跳ねて揺れる。その勢いに彩子は驚き、慌てて彼女の後を追った。
「ちょっと、何怒ってんのか知らないけど、アタシ別に困ってないのよ、ねえ――、」
花道の大きな歩幅なら、彩子の言葉も言い切る前に目的地に辿り着く。花道は揺れる髪の勢いのままにノックもなしにドアを開け、談笑を掻き消す声を張り上げた。
「オイこらゴリ!! 何で……って臭ぇっ!! 汚ねぇっ!!」
「だから言ったのよ……」
はぁ、と彩子のため息が花道の髪を軽く撫でる。たとえ男子という冠が付かずとも、思春期の男子ばかりの運動部の部室では、余程気を付けなければ衛生なんてとてもじゃないが保てない。靴や備品、壁にまで染みついたような体臭や汗の臭い。それだけじゃない、机や床に散乱した大小様々なゴミの発するごちゃついた臭いが、決して狭くはない筈の部室に充満し、花道と彩子は鼻と口を手で覆った。
「何だ桜木! ノックもなしに!!」
上は白シャツ、下はジャージ、という格好をした赤木が冷静さを掴み留めんという声で怒鳴る。彼の大きな身体に隠れて、何人かの部員が慌ててズボンやシャツを着こんでいる。が、花道は構わなかった。彼女も冷静さを失っていたといえる。
「何だじゃねーよゴリ!! 何で女子には更衣室がねーんだよ!!」
「はぁ!? お前はまたわがままを、」
「あたしじゃねーーー!! あたしもだけど、何でアヤコさんの場所がここにねーんだ!! マネージャーだろ!? ゴリが大黒柱でアヤコさんが縁の下の力持ちなんだろ!? だったらちゃんと縁の下も気にかけろよ!!」
窓を閉め切った部室の中、花道の声は部員たちの身体を突き抜けながら響き渡った。臭いさえ掻き消すような勢いの声で捲し立てられ、辺りに気まずい沈黙が下りる。
「オイ一年坊主! 場所つくるぞ!! ロッカー動かせ!!」
「……ハ、ハイッ!!」
「窓も開けろぉ!!」
最早この場に、お前も一年生だろう? と突っ込む者はいない。花道は裸だったり上下ちぐはぐな格好だったりをしている一年生たちを叱り飛ばし、ついでに上級生の尻を言葉で叩きながら、大掃除と模様替えを始めてしまった。
「ぬ、オイこらルカワ、おめーもロッカー運べ!! てゆーかさっさと服を着ろ破廉恥ギツネめ!!」
首からタオルをぶら下げた上半身裸の格好で花道を見ていた流川は、彼女に叱られてようやく右手に持ったままだったシャツをノロノロと着始める。さっき脱いだばかりのシャツを着て、彼はとことこと花道の傍に寄った。
「おせーんだよ。そこの一年と替われ」
ジャージの尻を脛で蹴られた流川は、例の黒々とした瞳で花道を見てからちょっと考える素振りをして、それから彼女のポニーテールを引っ張った。
「ぐえっ!」
軽くとはいえ、やったのと同じだけの強さの反撃をもろにくらい、花道の胸が大きく仰け反る。
「テ、テメーこの野郎!」
「替わるから床モップ掛けして」
「あ、ありがとう流川君、」
「……これ、どこ運ぶの?」
「む、」
やられた分をきっちりやり返した流川は、花道に言われた通り、疲れて果ててほとんど目の開いていない一年生の代わりにロッカーを運び始める。
あんまりさっぱりした流川のペースに怒気を削がれた花道は、頬を赤く染めたまま、
「ロッカーを仕切りにすっから、ここドアに向かって縦一列に並べて。んで、入口に備品置く」
と、素直な声で返してしまった。すると、彼女の様子を驚き顔で見守っていた木暮が、
「そうしたら、まず入口側に物を寄せた方がいいな」
と、話の輪に加わってきた。
「「ぬ、」」
花道の声に赤木の声が重なる。木暮はふたりのうちのどちらかに向かって、
「さあ、次の指示を出してくれよ」
と言った。どちらに向けてか分からない声の調子は明るく朗らかで。もしかしたら木暮も、どちらでもいい、と考えていたのかもしれない。
「じゃあ、棚運ぶ前にこっちモップ掛けして、ロッカーはふたつだけ奥に運んで」
答えたのは言い出しっぺの花道だ。
分かった、と答えた木暮は、黙り込んだ赤木の方を弓なりに細めた目でチラリと見てから部室を見回し、いやあ、しかし汚いなぁ、と例の朗らかな声で言った。
副キャプテンである木暮が率先して動き出してしまえば、それはほとんど部の意向となる。キャプテンが黙っているなら尚更だ。
モップやら備品やらを手に三人の様子を静観していた部員たちも、それぞれ顔を見合わせてから、能動的に動き始めた。部室が俄かに騒がしくなる。
皆を動かす必要がなくなってしまった花道は、ようやくすっきりしてきた頭で事の段取りをつける。と、この部室には更衣室を作るための資材が明らかに不足していることに気付いた。
「いかんな。――オイおめーら、あたしは今からちょっと出るけど、片付けの天才がいないからってサボるんじゃねーぞ!!」
「あっ! どこ行くつもりだよ」
さすが上級生と言うべきか。集団の中でも比較的元気だった安田が花道の背中に声を投げて引き留める。
既にドアの前に移動していた彼女は、振り返り不敵な顔で微笑んでみせてから、
「材料集め」
と答え、赤い風のように去っていった。
「……誰が天才だ、馬鹿者め」
嵐が去った後の静かな部室に、赤木の言葉がポトリと落ちる。彼らしくない力の抜けた声に、入口に寄せた棚の位置を見ていた木暮が振り返って返事をした。
「まあまあ。桜木の言うことだってもっともじゃないか」
――なあ、彩子? と突然水を向けられ、彩子の肩が驚きに震える。
「え、」
「……悪かった。本当は俺たち上級生が気付かなきゃならないことなのに。……嫌な思いをさせたな」
「そんな、嫌な思いなんて……。アタシが勝手にしてただけなんですから」
嫌な思いなんて一切していない。本当だ。教室を借りることは、彩子が自分で考え、決め、行動したことなのだから。そこに不満なんてない。――ただ、
「『勝手に』だとしても、我慢してただろう? チームの仲間に肩身の狭い思いなんかさせちゃ駄目だ」
――ただ、さみしかった。本当は、ずっと。
『湘北バスケ部初の女子マネージャーなんだから、部室に更衣室がないなんて当たり前。一緒になって着替えるのも気まずいし、別の場所を探した方がいいわよね。キャプテンは忙しそうだし、アタシから先生に相談して……』
先回りして考えて効率的に動く。マネジメントという職務の基本を忠実に守る為に言い聞かせてきた言葉はその実、胸によぎるさみしさを紛らわす為の方便だったのかもしれない。その言葉が、その言葉でもどうにもならなかったさみしさが今、泡となって消えてゆく。開け放った扉と窓の向こう。
「……お前は優秀なマネージャーだが、」
赤木の普段以上に重苦しい声。苦虫を噛み潰した彼は、彼らしい誠実な光を瞳に湛えて彩子を見据えた。
「そういう気の回し方は部活のときだけでいい。あんまり聞き分けよく振る舞うんじゃない」
「おい、赤木。いくら恥ずかしいからってそういう言い方はするもんじゃないぞ」
「っ、うるさい! オイお前らもいつまでも見てるんじゃないっ!!」
この機会だ、壁も床も綺麗にするぞ!! おめーら、雑巾持ってこい!!
と、厳つい顔を赤と黒の二色に染めた赤木が照れ隠しにとんでもないことを叫ぶ。突然の命令に皆は慌て、彩子は噴き出した。
僅かにぼやける視界で仲間たちの顔を見る。皆疲れた顔をしているが、嫌な顔をしている者はいなかった。
「ぬ、どうやらサボってはいないようだな!」
ご苦労! と、嵐の帰還。自分がいない間に随分と和やかになった部員たちの様子を見渡して、彼女は満足そうに鼻を鳴らした。その彼女は両手いっぱいに何か抱え込んでいる。
「ちょっとアンタ、何持って来たのよ? って言うかどこから持ってきたのよ?」
風になって部室を飛び出した彼女が両手いっぱいに巻き込んできたのは、大きな暗幕や腕や足の長さ程の木材たち。それらひとつひとつを、花道は誇らしげに広げてみせる。
「んー? コレはドア代わりの布きれだろ、あとそれを引っ掛ける棒と、これこれ、芳香剤!」
あんまりクセーから、職員トイレからもらってきた! と元気いっぱい答える花道の頭に、赤木のげんこつが炸裂する。
「イッテーーー!!」
「山賊かお前は!!」
「布と木材は!? どこから盗んできたの!?」
「盗んでねーっス! そこの階段に捨てられてた!!」
「あそこは演劇部のスペースだ!!」
全方位から喧々諤々の突っ込みが入り、花道は輪の真ん中で子供みたいに小さくなった。彩子は彼女の手を掴んで言った。
「――もうっ! こっちいらっしゃい!! ……先輩、ちょっと行ってきます」
「……すまん、彩子」
練習より余程疲れた顔の赤木たちに見送られ、彩子は花道を連れて部室を飛び出す。花道は掴まれた手と彩子の綺麗な髪とに視線をやりながら、怒ってる? と訊ねてきた。
「……怒るもんですか」
嬉しいのよ、と続けるには、バスケットボール部と演劇部の部室はあまりにも近い。と、廊下の奥、選択G教室手前の階段の脇に、ちょうど練習を終えたらしい演劇部の部員たちの姿が見えた。階段下のスペースに大道具を戻している彼女ら彼らに彩子は事情を説明し、花道の頭を下げさせ自らも頭を下げる。部長兼舞台監督だという上級生は、彩子の話に目を丸くしてから大笑いし、暗幕と木材を気前よく貸し出してくれた。暗幕はアトリエ公演のある年末まで使わず、木材は春公演用につくった大道具の端材なのだという。
彼女は、前の公演でつくったドア用のパネルまで貸し出そうとしてくれたが、そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないと断った。
残念。代わりに演劇部にも入ってくれたらよかったんだけど。桜木さん、絶対舞台映えするから。
「え?」
とんでもない下心をけろりと暴露され、花道と彩子のふたりは慌てて部室に逃げ帰る。冗談なのか本気なのか。盛り上がる声が閉じたドアの中にまで届いて、ふたりは顔を見合わせた。
「駄目よ、桜木花道。あんたはもう誰が何と言おうとバスケ部員。他の部には絶対渡さないんだから」
対して、彩子の言葉は本気だった。飾りのない分ストレートな言葉を正面からぶつけられた花道は、ウ、ウン。と子供のように頷いて彩子の言葉を受け止めた。
「どうしたんだよお前ら?」
「何だ、返してこなかったのか?」
そんなふたりを遠巻きに部員一同が見つめている。振り向くと、相変わらず古い上に臭いも酷い部室は、それでも整然と物が並んだ、備品置きと大小ふたつの更衣室を備えた部室に生まれ変わりつつあった。
「お、いい感じじゃねーか。クセーけど」
「何だ偉そうに!」
「生意気だぞ一年坊主!」
「坊主じゃねー! 見ろこの美しい髪を!」
上級生から笑い混じりに怒られても花道はびくともしない。どこ吹く風で、仕切りにしたロッカーの上の隙間を埋めようと別の資材を探し始める。
「あ! この箱いいな。ったく、おめーら無駄にデケーから余計な手間が掛かるぜ。何でロッカーよりデケーんだよ」
その賑やかな言い合いを背中で聞きながら、彩子はキャプテンの問いに答える。優秀なマネージャーらしい、明瞭な音。
「演劇部さんの厚意で、暗幕と資材は借りられました。芳香剤は後で返しに行くとして……明日、もう少しちゃんとした物を買ってきますね」
「うむ。――明日も少し早く切り上げて、その時間で掃除の続きをしよう。芳香剤じゃ根本的な解決にはならん」
「じゃあ洗剤も一緒に買ってきましょうか?」
「そうだな。領収書忘れるなよ。…………彩子、」
「はい?」
「……すまなかったな」
「…………え、」
「ゴリ! ゴリ!! 布かけるのやってくれ!! っておいルカワ!! おめーはこっち持て!!」
「……まったく、誰がゴリだ、誰が!」
声は小さく、喧騒に掻き消されてしまうほどささやかで、言葉はきっと彩子にしか届かなかっただろう。赤木は彼女が何か言うより先にその場を離れ、更衣室づくりの輪の中に入っていってしまった。その背中越しに彩子は、少しずつ姿を変えてゆく部室の全景を眺めた。体育館のコートの外と、この場所が、確かに自分の居場所なのだと感じられて、彼女は大きく息を吐いて吸った。やっぱり臭いな。と彼女は笑う。
「――桜木花道! あんたどうしてすぐ流川に突っかかるの!! 流川もちょっかい出すんじゃない!!」
「だってアヤコさん! こいつ、あたしのことどあほうって」
「どあほうはどあほう」
「何だこのぼんやりキツネめー!!」
やっぱあたしコイツ嫌い! と駆け寄る後輩の手を引いて無理くり抱き締め、赤い髪に指を通す。存外に柔らかく触り心地のいい髪は、強い主張の割に繊細な彼女の性質をよく表しているようで、彩子はその旋毛に小さなキスを落とした。
「ひゃあ」
「アタシはあんたが大好きよ、桜木花道」
髪と同じほど赤くなる子の初心さ、素直さが可愛らしい。あたしも好きです、と上手に返せないところも。
彩子と花道。ふたりの姉妹のような遣り取りを、部員一同が部室の中、蚊帳の外から見つめている。彩子は勿論気付いていたが、部活中以外は遠慮はいらないのよね、と開き直り、その手触りを堪能することにした。
花道がくすぐったそうに身じろぎをして、意を決して口を開く。
「あ、あた、あたしも」
「……俺は別に嫌いじゃねー」
と、そこに流川が割って入ってくるものだから、花道はまたも憤慨し、彩子は仰け反るほど笑ったのだった。
