SKYWALKER
その日の体育館の様子が何だか普段と違うことは、部に入部したてのバスケット初心者である花道にだって分かった。
入口の隅に固まっていた女の子たちが遂に流川の取り巻きとなったこと。元全日本の選手だという監督――とてもそうは見えないまん丸い風貌をしている――が初めて部活に顔を出したこと。彼が強豪校との練習試合を決めてきたこと。そして、一年生対上級生で試合をしなさい、と指示したこと――。
しかし花道の胸を鷲掴みにして揺さぶったのは、それら変化のどれでもなく、ただひとりの男のたった一本のシュートだった。不可抗力とはいえ花道のスカートの中を見た男。初めてできた同性の友人の想い人である男。流川楓。
「くれ!!」
そんな声も出せたのかと思うような大声をコートに響かせた流川が桑田からのパスを受け取る。シューズが床を踏みしめる音がいくつも響いて、それがまるでスイッチのようだった。
人間が風になる。
ボールを連れて流川が走る。ドリブルをしているのだから皆より走りづらい筈なのに、誰も彼に追いつけない。縦二八メートル横一五メートルのそう広くないコートの中で、流川の身体は一直線に突き抜ける疾風となり、鞭のように形を変えうねる旋風となった。彼の手から離れたボールが木暮の足の間で跳ねる。流川の身体も同じように一度地面に沈んだ。そして――、
そして彼は空へと跳んだ。
重力も空気も、あらゆる抵抗が彼の前にひれ伏し膝をつき、ゴールへと向かう身体を押し上げる援けとなる。空をゆく流川の身体は彼のひたむきな視線の軌道を辿りゴールへと至る。ガン! と凄まじい音を立ててボールがゴールネットをくぐり、役目を終えた、と地面で跳ねた。その音を聞き届けてようやく、彼の身体は着地する。
「…………」
花道は動けなかった。言葉もなかった。時間を忘れ言葉を忘れ思考を忘れた。否、奪われた。そのことに気付いたのは、顔を上げた流川の目が何気なしに花道を捉えたとき。
「…………」
ふらり、彼女の身体が流川の方へと向かう。それは花道の意志だったのかは判然としない。そういう、覚束ない足取りだった。流川はシャツの袖で額の汗を拭っている。その目はいまだ花道に留まっている。コートの白線の内と外でふたりの視線が絡み合う。
「……この嘘つきギツネ」
言葉を発したのは花道だった。普段の、つい先ほどまでの彼女からは想像できないような小さな声だ。尖らせた唇の先だけで発した、ちょっとひねくれて拗ねた音。
「なに?」
対する流川の返答は実にシンプルで真っすぐだ。今しがた桑田にパスを求めたのと同じ、そぎ落とした言葉は嘘を混ぜ込む余地がない。いつだって彼はそういう迷いのない言葉で話す。花道が答える。
「お前、あたしのこと空を飛んだとかキレーだとか言ったくせに、自分だって飛べんじゃねーか」
羞恥心。取り戻した花道の心と身体を埋め尽くしたのはそれだった。地上に降り立った彼がその真っ黒い瞳の中にある光で自分を射抜いた瞬間。彼女は嫌いな男の何気ない言葉に内心で喜んでいた自分を強烈に自覚したのだった。
「……」
流川の黒く眩しい瞳が真っ直ぐに花道を見下ろしている。花道は、ここで逸らしたら負けだ、とほとんど睨みつけるように彼を見上げた。そのふたりの姿を他の部員たちが瞬きも忘れ見つめている。流川が口を開いた。
「嘘じゃねーだろ」
「あ?」
「おめーが飛んで、キレーだった。それは俺がダンク決めたって変わんねーだろ」
「わ……」
と、さざなみ立った小さな声は、花道でもなければ流川でもない、彼の後ろに立っていた石井のものだった。石井は坊主頭から首までを真っ赤にして、邪魔してごめん! と叫び、桑田と佐々岡の元に逃げ込んだ。
「馬鹿っ!」
「だ、だってまさかさぁ」
「流川って案外……」
ひそひそ声はかえって耳につくのだと教えてくれる者はここにはいない。少年たちの視線と声に、花道はようやく自分と流川のやり取りが衆目を集めていることに気がついた。彼らの目に今、自分たちは一体どう映っているのか。
「……ふ、ふ、ふぬ~~~~~~っ!!」
わき上がる更なる羞恥に頭を沸騰させた彼女は、パス練習の為に手にしたボールを流川の顔面に投げつけ暴れた。が、出逢いの日からボールを投げられ続けている流川は、彼女の獰猛なパスを難なく受け止め投げ返す。びゅん! とボールが風を切る。花道は持ち前の反射神経でパスを受け取り、危ねーだろ! と自分を棚に上げ叫んで返した。
「テメー、ハルコさんたちに当たったらどうすんだよ! 大丈夫でしたか? ハルコさ……ハルコさん?!」
ボールと共に羞恥を振り払い、ようやくいつもの調子を取り戻した花道が背後の晴子を振り返る。
さっきまで嬉しそうに、またときに静かに彩子と舌戦を繰り広げながら試合を観戦していた晴子は、呆けた様子でその場に突っ立っていた。
「……め、目がハートになってる!!」
動かず、話さず。今しがたの光景に心奪われた晴子の様子は明らかに尋常でない。花道はどうにか彼女を取り戻そうと声を掛けたり、しまいにはその薔薇色の頬を軽く叩いたりしたのだが叶わず、兄である赤木にげんこつで殴られた。入部してからの数日で、彼は花道を殴ることを一切躊躇わなくなった。
「う、うわぁん!!」痛みとショックで子供のように泣き喚く。
「お、落ち着きなさい桜木花道!!」
ちくしょー! こうなったら!! と花道は振り返りコートに踏み込む。ちょうど目が合った佐々岡が肩をビクリと震わせたので彼女は、コラおまえ、疲れたんならあたしと替われよ、と強引にビブスを奪った。
「なに脅してんだコラ!」
「う~~~っ! ゴリ!!」
襟首を掴まれた花道が、赤木の逞しい腕にワッとしがみ付く。あまりの勢いに思わず彼は怯む。
「うおっ!!」
花道は構わず赤木の手を両手で握り締めた。
「出してくれゴリ~~~!! あたしも出してくれ~~~!!」
今彼女の胸にあるのは、自分のプレイで晴子の心を取り戻すこと、この一点のみだ。神や仏に縋る必死さで花道は赤木に懇願する。
隣で見ていた彩子もこれには笑って、出してあげたら? 先輩、と助け舟を出した。どちらかといえば、花道にしがみ付かれた赤木への助け舟だ。
「残り時間も少ないし。それにほら、これは一年生の力を見る為でしょ? 桜木花道も、もうれっきとしたバスケ部員だし」
「アヤコさん」
最早赤木の腕どころではなく胸にしがみ付いている花道が鳴き声を上げる。その背後から、今度は木暮が舟を出す。
「少しくらいいいんじゃないか、赤木」
「メガネ君」
「木暮だ。いい加減名前覚えろよ」
「コグレ君」
周囲の声としがみ付く花道の腕の必死さに、赤木もとうとう観念した。彼は花道の身体を引きずりながら監督である安西の元に向かい、後ろ手を組んで頭を下げた。
「安西先生、あの生徒ですが……。女子ですが込み入った事情で入部しました。まだバスケットを始めたばかりで、人間的にも少々問題があるのですが……」
真面目に説明するキャプテンの後ろで、花道は覚えたばかりのボールハンドリングを披露する。彩子直伝、部員たちをも驚嘆せしめたボディサークルと八の字回しだ。
「……」
その技術のほどや必死さを、安西は光る眼鏡の奥の目でどう見たのか。
彼は鷹揚に頷いて、
「おもしろそうじゃないですか。出してあげなさい、赤木君」
と言った。花道は歓喜した。
こうして初めてのゲームに参加することとなった花道だが、残り時間はたったの二分。ドリブルとパスの基本しか覚えていない彼女では、ボールに触れるのが精々だろう、というのが彩子や赤木の見立てであった。上級生対新入生、周りは全員経験者だ。本人は流川と張り合うつもりで火花を散らしているが、バスケットの楽しさ厳しさに触れられただけで万々歳。と、考えていたのだが……、
「だりゃっ!!」
背丈のほとんど変わらない木暮の頭の遥か上で、花道がむしり取るようにしてボールを奪った。
「ナイスカット!!」
「何て瞬発力だ!! すげぇ!!」
コートの内と外がざわめく。驚きと共に、一年生チームは勢い付いた。
着地した花道が走り出す。ゴール目掛けて一直線。
「おおっ!? ドリブルもなかなかスムーズだぞ!!」
「基礎練習のたまものだわ!!」
それは花道自身の感じるところでもあった。今まで教わってきた地道な基礎の技術が、確かに自分の土台となってゲームを前に押し進めている。漏れた微笑が風に流れる。と、それを追い越し彼女に並走するものが現れた。流川だ。
「桜木さん!! 流川君があいてるよ!! パス!!」
桑田が声を張り上げ教える。ボールを前に運ぶ彼女はシュートを知らない。それならば誰かに任せるのが定石だろう。パスなら彼女も教わっている。何よりふたりはチームで、バスケットボールはチームで行うスポーツなのだから。
「どっどうしたんだ!? 早く出さないとマークがついちゃうぞ桜木さん!!」
花道は声を無視した。それが故意であるどころか確信的であることは、隣を走る流川にも正面に立ちはだかりゴールを守る赤木にも分かった。
「ナメてんのかてめえら!! 仲間割れなんかして、オレたちに勝てるとでも思ってんのか!!」
「フン、バカめ、ルカワ!! 誰がおめーなんかにパスするもんか!!」
至極まっとうな赤木の叱咤もどこ吹く風、と花道は風に乗り上げ空へ跳ぶ。彼女の足の下で空気が震える。驚きの声。
「うおおぉー!!」
「跳んだ!!」
しかし赤木も負けてはいない。彼女が〝飛ぶ〟ことを既に知っているキャプテンは、一切の油断も手加減もなく彼女を追って空へと跳んだ。優に二メートルを超える壁が花道の前に立ちはだかる。「ナメんなクソガキ!!」
――がしかし、彼女の手は、手にしたボールは、赤木の手を超え声を超え、空の一番高い所にあった。
ボールを掴んだ長い手が大きな軌道を描いて振り下ろされる。花道渾身のスラムダンク。それはゴールリングではなく、赤木の頭に炸裂した! 衝撃に体育館が揺れる。
そして、沈黙。
「……ゴ、ゴリ!!」
地面に倒れた赤木の周りに部員が集まる。彩子も救急箱を持って駆けつけた。瞬く間にできた輪の中心、花道のか細い声がぽとりと落ちる。
「……ワザとじゃないよ」
ツンツンと指先で地に伏した巨体の背をつつく。皆もそろりと一歩近寄った。とその瞬間、火柱のように赤木が立ち上がり花道の首を後ろから締め上げた! 花道は叫び、皆は慌てた。
「いい気味だ」
流川だけは相変わらずのローテンションで花道を指差していたが、隣に立っていた桑田は、彼が、だから言ったじゃねーか、とひとりごとのように呟いたのを確かに聞いた。見上げると、その唇は僅かに微笑んでいるように見えた。身長差のせいかもしれないと思うほどの微かな角度。けれどその黒い目の輝きは見間違いではないだろう。
確かに、彼女は綺麗だった。
我を忘れて花道を締め上げる赤木を部員たちが止めるに止められず見つめている。
たわむ輪の外側、白線の向こう。
そこで同じように目を輝かせる大人がいたことは、部員の誰も気が付かなかった。
