Fly girl, in the sky 第六話

空のふもとの少女たち

 支度を済ませた晴子がリビングに顔を出すと、弁当の用意をしていた母親が娘の格好を見て、
「あら、久し振りね」
 と声を掛けた。時刻は五時三〇分を回ろうかという早朝だが、朝の早い赤木家ではもう朝食の匂いがふくよかに漂っている。
「うん。目、覚めちゃって」
 冷蔵庫から牛乳パックを取り出してグラスに注ぐ。
「走りに行くなら軽く食べてったら?」
 弁当に入れる為のリンゴのボウルを差し出され、晴子は雛鳥のように口を開けた。そこに母が小さく切ったひとかけをポイと投げ込む。カシュリと軽い音と共に爽やかな匂いが小さく広がる。
 晴子は牛乳を飲んで、飲み終えたグラスを洗って水切りに置いた。隣では母親が並べた弁当箱におかずを詰めている。晴子の丸い二段重ねの弁当箱の隣に並ぶ兄の角型は、彼女の倍ほど大きい。
 今日のおかずは昨日の残りのハンバーグと、スナップエンドウの醤油炒め。プチトマトとブロッコリー、アンパンマンポテト。デザートのリンゴは別のタッパーに。
 兄の弁当箱にも同じものが入るが、ここに彼は自分で茹でた卵を詰めていく。
「スナップエンドウ、春だねぇ」
「あなたこれ好きよね」
「うん」母の手からリンゴをもうひと口もらって、晴子は玄関に向かった。「いってきまあす」
 ドアを開けると、夜の名残を僅かに含んだ春風が晴子の頬を撫でていった。

 久し振り、と母は言ったが、早朝のランニングは受験の頃の息抜き以来だ。数カ月前のあの頃、この時間の空はまだ真っ暗で、風は刺すように冷たく痛いほどだった。今、季節は春。悩んでいた日々が遠く感じる。
 朝の清らかな光を頂いて胸を広げる街の景色を眺めながら三〇分ほど走ると、折り返し地点の公園が見えてくる。ここで軽くストレッチをしてから来た道を引き返すのが、バスケットボール選手時代の晴子のルーティンだった。
「ハー、つかれた。もうダメだわ‼」
 それが今では、およそ半年のブランクに肺が悲鳴を上げている。あの頃だって体力があった方ではないが、それでも今よりはあった。
「中学の頃はもっと行けたんだけどなー。やっぱり現役の頃とはちがう……ん?」
 首にまとわりつく髪を横に流し顔を上げる。と、公園のフェンスの向こうから、馴染み深い音が聞こえることに気が付いた。ボールが地面を打つ力強い音。晴子がこの世で最も愛する音のひとつだ。フェンスと植栽の間から中を覗き込むと、彼女の目にふたつの赤が飛び込んでくる。バックボードにぶつかって空高く跳ね上がるボール。そして、風に乗って緩やかなウェーブを描くポニーテール。
「桜木さん」
 呟く。高校で新しくできた友人である桜木花道が、昨日教わったばかりのレイアップシュートを練習していた。
 ――桜木花道。湘北高校に入学した晴子が出逢った同い年の少女。入学式を終えたばかりのまだぎこちない一年生の校舎。窓の外の桜を見上げる切なげな横顔は、同級生たちの雑踏の中で頭ひとつ高く、自然人目を引いていた。晴子も彼女に見惚れた。捲った袖から伸びる腕の張りのある筋肉、ため息をついて俯いたときの、首から背中にかけてのライン。その美しさ見事さに、あの日晴子は思わず声を掛けてしまったのだった。
『バスケットはお好きですか……?』
 あんな大胆なことをしたのは後にも先にもこのときだけだ。その上更に、出逢ったばかりの女の子の腕やら足やらを、触るどころか撫でたり揉んだりしてしまった。あんな不躾なこと、花道が朗らかで心根の優しい少女だったから許されたが、そうでなければ避けられたり、人を呼ばれたりしてもおかしくなかったと今なら分かる。
 後先考えずに声を掛けてしまったのは、見つけてしまった、そう思ったからだ。何をかは分からない。分からないけど。
 練習を続ける花道の姿を斜め後ろから見つめる。黒のタンクトップとグレイの短パンから、身長に見合う長い手足がすらりと伸びている。実用的な筋肉のついた手足はやはり、晴子の目にとても美しく見えた。モデルや絵画のような、鑑賞の為の美ではない。鳥が羽ばたく為に身体を軽くしたように、魚が水で生きる為に鰭を得たように、花道の身体には生きる為に最適化された美しさがあった。
 桜木花道という魂を収める為の。
 バックボードにぶつかって落ちたボールが跳ねて、ちょうど晴子の手元に飛び込んでくる。人懐こい犬のように受け止めると、振り向いた花道と視線が合った。
「おはよ」
「ハ、ハルコさん……‼」
 真剣な表情から一転、真っ赤になって慌てだす様はいとけないこどものよう。晴子も自然笑顔になる。
「ビックリしちゃった。こんな朝早くに桜木さんが練習してるなんて」
「イ、イヤ、練習だなんて‼」
「昨日上手くいかなかったレイアップシュートの練習をしてたのね」
 昨日、バスケット初心者である花道の基礎練習にようやくシュート練習が追加された。ようやく、とはいっても、バスケットを始めて一カ月足らずでここまできたのだから、その成長速度は凄まじい。それに加え、これは同級生の佐々岡が教えてくれたことだが、前日に主将の心を動かす出来事があったらしい。演劇部から熱心な勧誘を受けた花道が、『バスケットウーマンだから』と誘いを断ったのだ、と。あんなに基礎練嫌がってたのに、と佐々岡は眼を細めながら口にして練習に戻っていった。確かにその晩、隣に座って夕食をとる兄も、心なし嬉しそうにしていた。成長速度だけではない。そういう生真面目な誠実さが、彼女だけじゃない、周りの人をも前へ前へと押し進めてゆく。
 晴子だってそうだ。
「レイアップだったらあたしも少しは教えてあげられるわ。中学の頃、あたし、このシュートだけは得意だったのよ」
 革の感触を確かめながら口にする。バスケットは自分が勧めたという自覚の他にも、花道の為に何かしてやりたい、という想いがあった。たとえ自分の持てる力が小さくても、だ。しかし、
「あっ、でも桜木さん、人に教えてもらったりとかはキライかしら……」
 昨日の練習の様子が、先走る気持ちにブレーキを掛ける。
 主将に頼まれドリブルシュートの手本を見せてくれた流川に対して、花道は邪魔をしたり、ボールを投げたりして拒否反応を示していた。しまいにはボールをぶつけあう喧嘩にまで発展して、結局その日のシュート練習は打ち切りになってしまったのだった。
 心配顔の晴子に、花道は満開の笑顔で答える。
「イヤ! まさか‼ バスケットウーマンは人の意見を聞くのが大事ですから‼」
「‼ そうよね!」
 晴子は胸を撫で下ろし、ボールを伴いシュートの位置に向かった。
「…………」
 部活を引退してからおよそ七カ月。その間、ボールに触れる機会がなかったとは言わない。ゴールにだって、それこそ花道と出逢ったその日にレイアップシュートをきめようとした。けれど、遊びや気休めではない、入れなければならないシュートの為にバスケットゴールに向き合うのは、引退してから初めてのことだった。
「……いきまーす‼」
 語尾に緊張が混じったことに、花道は気付いただろうか? 走りながら、千回、万回放ったシュートの基本を思い出そうとしていることを。
(できるだけ上へ、高く!)
 しかし、気負いが空回りしたのか、晴子の足はもつれて絡まり、その身体はビタン! と大きな音を立てて地面に転倒した。ああ‼ 晴子が声を上げるよりはやく、花道が叫ぶ。
「なぜ⁉」
 何故? 理由は出逢ったその日に伝えた通りだ。晴子には運動神経がない。足がもつれて転ぶことにも慣れてしまって、もう驚きもしないほど。
 しかし花道は違う。彼女は血の気の引いた顔を左右に振って水飲み場を探すと、晴子を抱き上げ駆け出した。
「きゃあっ!」
 まさか女性に横抱きにされるとは思いもしなかった晴子は驚き、思わず花道の首に手を回す。花道は、晴子を抱えていても尚晴子では走れない速度で走り、それから血と砂で汚れた彼女の足を優しく洗ってくれた。晴子は乗せられた膝の上で、体験したことのない速さに目を回していた。本当に、大風に乗っかったみたいな体験だった。
「よーし、今度こそ!」
 傷口を洗い、ハンカチを巻いて気を取り直す。恥ずかしさもあって、さっきよりも大きな声が出た。花道は飛び上がって驚いた。
「イ、イヤ! もういーですよハルコさん‼」
 やめた方が! と両手を上げて慌てふためく花道の様子は、晴子にとって馴染み深い反応だ。
「む、」
 今まで出会った友人知人、恩師や大人たちと同じ反応。
「あたしのこと、トロイ女と思ってるでしょう?」
「う……」正直な反応。
「やっぱりね、みんないつもそーゆーんだから」
 失礼しちゃうわ、と思わず漏らす。そんなことはこの身体と付き合いの長い自分が誰よりもよく分かっているのだ。
「でも大丈夫、本当に得意なんだから」
 そんな身体を携えてバスケットをしてきたのだ。こどもの頃からずっと。
「中学時代ね……、あたし、何にもとりえがなかったの。桜木さんみたいに背が高いわけじゃないし、三点シュートは届かないし、ドリブルはすぐ取られるし、相手にパスしちゃうし……。だけど走ることだけならあたしにもできるから、速攻でまっさきに走ることだけはやろうと決めたの。だからランニングシュートだけは外さないように練習したわ。お兄ちゃんに教えてもらって」
「ゴリに……」
「うん。ゴリ兄ちゃんに」
 花道が慌てる。晴子は笑った。
「あたし、だから今でもランニングシュートは得意なのよ」
 花道はもう、晴子に止めろとは言わなかった。それでも気持ちは隠せないから、心配する表情はそのままに、シュートがよく見える位置に移動する。
 晴子は背中に彼女の視線を感じた。その昔、試合中にも感じた視線。不安、心配。そして出される、どうか入れて欲しいという祈りを含んだ、縋るようなパス。丸まりそうになる背中に渇を入れて彼女は駆け出す。
(……大丈夫、って言ったでしょう!)
 自分を信じることを自信と呼ぶなら、晴子には確かな自信があった。彼女はずっとそういう視線と闘ってきて、そして自らの努力でもって塗り替えてきたのだ。不安を期待に、心配を信頼に。晴子ならきっと入れてくれる! そう信じる仲間たちの真っ直ぐなパスに。
 それを思い出せば、身体は数万のパスの記憶を自然と反復した。視線は固くゴールに結ばれている。踏み切った足の反対側を地面と平行に引き上げ、晴子の身体は空中に舞い上がる。
 指先から離れたボールが迷いのない軌道を描いてゴールネットをくぐる。パサッと気持ちいい音が立つ。
「おおっ‼」花道が声を上げた。
「入った?」
 バン、とボールが地面を叩いた音が、晴子の声に力強く頷く。
「スバラシイ‼」それをそのまま言葉にした花道の声。
「ね? 得意って言ったでしょう!」
「ハイ! ハルコさん、いっぱい頑張ったんですねえ!」ふたり手を取って飛び上がりながら、何気ない声で花道が言った。「あたしも努力しなきゃ!」
「…………!」
 その言葉に晴子の胸は震えた。思いがけない言葉が身体の深いところまで浸み込んで指先まで広がっていく。
 ――そうなの、あたし、いっぱい頑張ったの!
 そう叫びだしたい気持ちが胸の底から沸き上がったが、晴子の心はどうにかそれを堪えた。そのまま口にするには、花道の言葉はあまりに他愛なく、晴子の心は切実だった。代わりに口にする。
「さぁ、今度は桜木さんの番よ! あたしがコーチしてあげる!」
「ハイッ‼」
 花道は答え、晴子のパスを受け取った。

「うりゃっ!」
 朝日の中でボールを高く放り投げる花道の姿を晴子は見つめる。やはり何度見ても見事な身体だ。バスケットボールをする為に生まれてきたような。しかしボールは無情にもバックボードにバチンとぶつかって落ちる。
「うぅ……っ」
「桜木さん、最初は誰だってうまくいかないものよう‼」
「そうですか?」
「そーよ、気にすることないわよ」
 花道はたった今の自分のシュートを思い返しているのか、難しい顔で手を握ったり開いたりしている。何かを掴み取ろうと試行錯誤することは、漫然と練習を反復するより余程成長の糧になる。晴子も経験者の目で見て考える。
(何がいけないのかしら……。フォームはそんなにおかしくないと思うけど)
 強いて言えば、踏み切った後の足を高く上げ過ぎているようにも見えるが、身体全体で跳んだ後のバランスに影響はない。迫力もある。ならばどこに問題があるのか……。
(お兄ちゃんは何て言って教えてくれたっけ。確か膝を柔らかくして……、)
 一番身近な師である兄の言葉を思い出そうと努める。花道や多くの部員にとって厳しく恐ろしい主将である彼は、晴子の練習に根気よく付き合ってくれた、誰より優しい先生だった。そして同時に、彼女の憧れる選手のひとりでもある。
「よし!」
 足を伸ばした花道が晴子の思考を遮り、再びボールを手に取り走り出す。彩子がみっちり基礎を教え込んでくれているお陰で、ドリブルは勢いがあっても安定している。
「高くジャンプ――!」
 声を上げた花道が風を巻き上げ空へ跳ぶ。全身がバネになったような伸びやかな姿に晴子は確かな手応えを感じたが、ボールはゴールリングを通り過ぎた。
「あっ、しまった……‼」小さな弧を描いたボールはそのまま地面に落ちて転がる。「イヤ‼ ハルコさん、今のは高く跳ぶことに気を取られて手がほったらかしに……、」
「手がほったらかしに……、」
 晴子の頭の中にあったものがしっかりとした像を結ぶ。
「そうか‼ それでいいの‼ 手を使い過ぎてたのよ‼」
「?」
「そーか、お兄ちゃんの言ってた『置いてくる』って、こういうことだったのね……‼」
「おいてくる……」
「そーか……、」
 その昔、兄にレイアップシュートのコツを尋ねたとき、彼は膝の使い方と共に、手の使い方を教えてくれた。まず膝を柔らかくして全身で跳び、ボールはリングに置いてくるような感覚で、と。
 置いてくる。その言葉、感覚は晴子の身体に馴染まず、結局シュートが入るようになっても兄の教えは分からないままだった。それが今ようやく分かった。
 そして気付く。兄の感覚が晴子には決して分からない、ということに。
「置いてくる……、そーか、手の力はいらないのか。なるほど……、何かを掴んだような気がする……、」
 けれどその感覚を、花道は確かに掴み、理解したようだった。高く跳べる足で、すらりと長く筋肉のついた腕で。
「…………、」
 悔しいな。晴子は思った。自分がどれだけ頑張っても見られない景色、辿り着けない場所がある。どれだけ闘っても、どれだけ愛しても――、
「膝をやわらかく、高く跳んで、置いてくる。よし!」
 けれどそんな晴子の感傷に、花道は一切関係ないのだ。晴子は顔を上げ、美しい背中を見つめた。
「いきますよ、ハルコさん。今度はバッチリ!」
 振り返った彼女の、心を明け渡すような笑顔が眩しい。
「うん‼ ガンバッテ‼」
 晴子はピースを返した。花道は駆け出した。
「膝をやわらかく、高く跳んで、置いてくる‼」
 とうっ‼ 出逢いの日と同じ声を上げて、花道は空を飛ぶ。しがらみを断ち切る力強さで。高く、伸びやかに。
 ネットの揺れる乾いた音の後、ボールが地面を叩いて転がる。晴子が愛する音ふたつ。
「っ……入ったあーーーっ‼」
「できた‼」
 花道が晴子を振り返って叫ぶ。晴子は両手を上げて彼女に駆け寄った。しかし、
「とわっ‼」
「ハ、ハルコさん⁈」
 勢い余ってまたしてもつんのめる身体を、タンクトップの胸が受け止める。期せず広げた胸に飛び込む形になって晴子も花道も慌てたが、嬉しい気持ちがそれに勝った。ふたりは抱き合って喜んだ。
「…………、」
 初めてシュートを決めたとき、お兄ちゃんも喜んでくれたっけな。晴子は思い出した。中学一年生の夏休み、自分の練習があるのに貴重な時間を妹の為に割いてくれた兄のことを。何度失敗しても、何度転んでも、兄は晴子がシュートをできるようになる、と、晴子以上に信じてくれた。だから晴子も自分を信じられたのだ。
 ――転んでも、跳べなくても。
 沈みかけた太陽が赤々と燃える夕暮れ。初めて晴子がレイアップシュートを成功させたあの日。飛び上がって喜ぶ晴子を受け止め抱き上げて、兄は、頑張ったな、晴子! と力強く言ってくれた。高い視線と回る景色に、空を飛んだみたいな気持ちになったことを、今でもはっきりと憶えている。
 バスケットが好きだ。改めてそう思った。ちっぽけな自分が情けなくて、もどかしくて、苦しくっても。
「ね、桜木さん、バスケットって楽しいでしょう?」
 晴子の言葉に、花道の肺が目一杯膨らむ。
「ハイ!」
 今日一番の元気な返事が朝の公園に響き渡り、晴子は笑った。そうなの、バスケットって楽しいの! 叫びだしたい気持ちを力に変えて両手に込める。花道の腕も、同じだけの強さで応えてくれた。その、窮屈な腕の中で晴子は口を開く。
「ゴリ兄ちゃんと流川君にも教えてあげなきゃね、シュート、できるようになったよ! って」
「ル、ルカワ?」
「そうよう! あんなに何回もお手本見せてくれたんだから、きちんとお礼を言わなきゃダメよう!」
「ぬ……。そ、それはちょっと……」
 渋る花道に、どうして桜木さんは流川君を目の敵にするのかしら? と首を傾げる。彼だってきっと、彼女の上達を望むから、練習に付き合ってくれたのだろうに。
「バスケットウーマンは人の意見を聞くのが大事、なんでしょう?」
 先輩バスケットウーマンもそう思うわ! 努めて軽い調子で放った言葉は空に高く舞い上がる。
「う、……はあい」
 気の抜けた声が後に続いて、晴子は抱き着く腕に一層の力を込めたのだった。