Fly girl, in the sky 第七話 - 2/3

 序盤一九点という大差をつけられた中で、前半戦を八点差で終えられたことは、ほとんど奇跡といってよかった。ハーフタイムでコートを離れた選手たちの表情は明るく、それぞれが勝利を信じチャンスを掴み取ろうという熱意に満ちている。
 それをもたらした赤木のダンクは、ベンチに控える花道たちにも安堵と勇気をもたらした。かつて花道も敵として対峙したときに見せつけられたゴリラダンク、もといスラムダンク。彩子は赤木を〝彼がゴール下にいるだけで、湘北は一本筋が通る〟と言っていたが、味方として彼がいるということがこんなにも心強いことだとは思わなかった。しかし、
(この流れを作ったのはルカワだ)
 という思いが、花道の脳にこびりついて離れない。流川の、重く凝った空気をぶち壊すようなプレイ。誰もがシュートに向かうと疑いもしなかったジャンプからの赤木へのパス。
 あの瞬間、花道は視覚以外の全ての感覚を忘れてしまった。――見惚れていたのだ。有り体な言い方をすれば。彼の貪欲なプレイは、花道の目と脳にまるで閃光のように焼き付いた。或いは恋のように。
(くそっ)
 悔しい、と花道は思った。あれだけの大見得を切っておきながら、未だ自分はコートに立つこともできず、ただ流川がシュートを決めるのを見ていることしかできない。
「スリーポイント‼」
「五点差だーーーっ‼」
 ギャラリーが、ベンチが歓声に沸き上がる。彼のプレイが、まるで暗い部屋のカーテンを開くみたいに人々の心を希望で染め上げていく。本人の意思に関係なく土足で踏み入り塗り替える身勝手さ強引さを、どうして彼らはそのまま受け入れてしまえるのだろう。花道には分からない。
 花道は受け入れたくない。手放したくない。自分を。
「何をしとるかお前ら‼ 三〇点あけろと言ったはずだ‼ 湘北相手になんてザマだ‼」
 タイムアウトを取った陵南のベンチに田岡の怒声が響いている。既にその顔には笑顔も余裕もなく、対峙する生徒たちの表情にも暗い影が差している。ただひとり、エースである仙道を除いて。
「おい彦一、ポカリ取って」
 段々と白熱していく仲間たちの輪を彼はどう見たのか。少し外れた場所でしゃがみこんでレモンを齧る仙道の身体は輪の外を向いている。その横顔に田岡は怒りを投げた。
「聞いとるのか仙道‼」
「は、イヤ、でも湘北はそんな弱くないっすよ。センター赤木の存在感だけでベストエイトくらいの力はあると思うけど、」
 だから追いつかれたことは恥ではない、と平然と口にする仙道の冷静さは本来チームにとって必要なものである筈だが、この場では悪く作用した。
「バカモン‼ エースがそんなんでどうするか‼」
 陵南もまた、観客たちと同じように自分を失っていたといえよう。
 だからだろう。パイプ椅子の陰に隠れる大きな赤に気付くのが遅れたのは。
「ああっ⁉」
「ス……スパイだ‼」
「……‼ ばれたか」
 対戦校のベンチに忍び込んでスパイ行為を企むような人間なんて、この場にはひとりしかいない。言うまでもない、花道だ。彼女の存在にチームで最初に気が付いた越野は、スポーツマンシップをないがしろにする花道の振る舞いに、遂に怒りを爆発させた。
「おい‼ ふざけるなよお前‼ どういうつもりだ‼」
 彼は自分より目線の高い花道をキッと睨み上げ、赤いユニフォームの胸倉を掴もうとし、直前でそれを踏み止まった。代わりに言葉で彼女を責める。
「いくら練習試合でもこっちにとっちゃ今年最初の大事な試合なんだ。さっきからウロチョロしやがって……遊びじゃないんだ、やる気がないなら帰りやがれ‼」
 全くの正論。正当な非難だが、ここで問題なのは花道にとってもこの試合は決して遊びなどではなく、また彼女がやる気に満ちているということだ。
「遊びじゃねーだと? あたしだってそうだ‼ ……小僧、秘密兵器だからガマンしてるあたしに向かって、よりにもよって遊びじゃねーとは、言ってくれるじゃねーか」
 慌てて止めに入った相田を片手でいなし、花道は越野に押し迫る。しかし越野も負けてはいない。彼の勝気さをよく知る田岡もいよいよ慌てて仲裁に入った。
「おいっ、やめろ‼」
「うるせージジイ」
「なにっ……」
「湘北はゴリとルカワだけじゃねーんだ。ざけんなよクソジジイ」
 正に不良、正にスケバン。思い切りのいい啖呵を笑って聞き流せるのは、この場ではきっと桜木軍団だけだろう。スポーツマンたちは花道の振る舞いを遂に腹に据えかねて、めいめい声を荒げ非難した。
「てめえ、なんて口の聞き方だ!」
「先生に向かって少しは礼儀をわきまえろ‼」
「それでもスポーツマンか‼」
「スポーツマン? バスケットウーマンだ」
 ワリーかよ、と前髪をかき上げる花道の癖を見た軍団は、そろそろ頭突きがくるか? と笑いを収めて視線を交わす。
 すると、彼らがギャラリーの階段に目を向けたのと同じタイミングで、一触即発の空気に穴を開ける、大らかな笑い声が辺りに響いた。
「はっはっは、うんうん」
「仙道さん……」
 大きく口を開けて、例の絵に描いたおひさまみたいな顔で笑うのは仙道だ。花道は正面の越野を押し退け照準を改めると、一路彼の元に向かった。フラストレーションの溜まりに溜まった彼女は、今にも仙道に噛み付かんばかりだ。
「なに笑ってやがる、センドー。おめーはあたしが倒すつったのを忘れたか、あ?」
「ああ、おぼえてるぜ」
 結い上げたポニーテールが左右に揺れるのを目で追ってから、仙道は先ほどの花道の仕草を真似て前髪を上げてみせた。あからさまな挑発。しかし花道は不思議とそれに乗ることをせず、仙道をじっと見つめた。仙道も花道を見つめた。ふたりの視線がぶつかり合い、そして固く結ばれる。無言のまま交わす視線にふたりは何を感じ取ったのか。周囲はそれを分からぬままただ見つめ、しばし仲裁を忘れていた。
 そこに、重い足音が近付いて時計が動く。
「バカタレが‼」
「ぎゃんっ‼」
「‼」
「さあ今だ‼ みんなで取り押さえろ‼」
 湘北主将による特大の雷とげんこつが頭上に落ち、花道はその場にうずくまった。それを副主将の掛け声で皆が一斉に確保する。抜群のチームワークで風のように彼女を遠ざけその場を収めた一団の背をしっかりと見送り、赤木は改めて一同に頭を下げる。
 また殴った……、とドン引きしていた陵南の部員たちは、その切り替えの速さにも驚いた。彼らはあまりにも暴力に慣れている。
「大変失礼しました。どうかお許しを」
「うむ……まあいいが。赤木君、あの生徒はやめさせた方が部の為だと思うぞ」
 田岡の心底湘北の為を思った助言を赤木は濁しつつ頷き、再度頭を下げてベンチへと戻っていった。
「さあ、試合再開だ! 審判‼」
 田岡の声でようやく館内が試合の雰囲気に戻り始める。その陰で、仙道は誰に言うでもなく、
「やめさせるわけねーさ」
 と呟くように口にした。その言葉を聞いたのは近くにいた相田ただひとりだけだったが、他の誰が聞いたとしても、彼の真意は分からなかっただろう。
 ――彼は、花道に何を見ているのか?
 相手を翻弄する鋭いドリブルの合間に、仙道が花道に視線を投げたことに相田は気付いた。彼は明らかに桜木花道という選手に一目を置いている。相田にとっても花道は特別な選手であったが、それは彼が花道の跳躍を目の当たりにした為である。羽ばたくように空を飛んだ彼女の姿と輝くような自信は、相田に彼女の才能を信じさせたが、仙道はそうではない筈だ。ふたりは今日が初対面。仙道は試合に遅刻し、花道は未だコートに立っていない。それとも彼は花道を見ただけで、その才能に気付いたとでもいうのだろうか?
 ――意図か偶然かは分からないが――花道から一番よく見える位置をとって仙道がシュートを決める。沸き上がる歓声と走る湘北の選手たちを背景に、仙道は花道を認め、微笑み、指で彼女をコートへ招いた。微笑みは今や太陽ではなく、もっと生々しい感情を含んでいる。その挑発は赤木や流川を驚かせ、花道を大いに喜ばせた。
「おーし、さあ一本止めようか‼」
 予想外の接戦と、しかし逆転を許さない仙道のプレイ。そして花道の滅茶苦茶な振る舞いと野次に、試合は思いがけないほど白熱している。
 コート上の司令塔である安田が調子のいい流川を使おうとパスのタイミングを探る。しかし流川を徹底的にマークしている仙道にそれを阻まれ、彼は苦し紛れのパスを潮崎に回した。普段の冷静さを取り戻した安田の目は、仙道の実力を過たず測り、そしてひとつの懸念を彼に抱かせた。
 あの流川が振り切れないほどの仙道のディフェンス。その技術は確かに凄まじい。しかし、実力差だけではない問題がそこにはあるのではないか? 前半戦、コートの雰囲気をひっくり返す力ずくのプレイで周囲を圧倒した彼の体力は、もうあまり残っていないのではないか――?
「桜木君」安西が花道を呼び、彼女に告げた「ウォームアップをしときなさい」
「ぬ?」
 安西の言葉に、言われた本人よりも隣に座っていた彩子の方が驚く。彼は、監督は、本当に花道を試合に出すつもりがあったのだ! 秘密兵器としての起用かどうかは分からない。もっと別の、猛将にしか分からないような高度な計算があるのかもしれないし、ないのかもしれない。しかし、監督はこの試合を勝利で終わらせる為のピースとして、花道を数に含んでいた。その事実は彩子をたまらなく嬉しくさせた。
「オーマップ? 何だそれは」
「ウォームアップ! 身体を動かしてあっためときなさいってことよ! 分かった? 桜木花道」
 出番が近いってことよ。
 ウォームアップの言葉の意味も知らない彼女を彩子は送り出す。生まれて初めての試合。強豪校との対戦で、花道にできることなどきっと何もないだろう。しかしそれでも、あの子なら何かしてしまうんじゃないだろうか? と期待してしまう何かがあった。彼女は台風みたいな勢いでボールハンドリングを見せつける花道を微笑みながら見つめた。
(やってやんなさい、桜木花道)
 しかし、この彩子の心の声は、思いがけずはやいタイミングで聞き届けられることとなる。届いてしまった、と表す方が適切だろう。
 高い笛の音が試合の流れを止めた。
「オフェンス‼ チャージング‼ 白四番‼」
 陵南・魚住のファウル。ボールを手にした彼の足元で赤木がうずくまっている。人が密集するゴール下でのボールの奪い合いで、彼の肘が赤木に当たってしまったようだった。膝をつき額を押さえる赤木の指の間から赤い血がしたたり落ちる。
「あっ!」
「お兄ちゃん‼」
「レフェリータイム‼」
 試合が止まり、彩子がタオルを持って駆け寄る。立ち上がった赤木はふらつくこともなくタオルを受け取り歩き出したが、出血の部位が部位であるだけに場は騒然となった。
「大丈夫か、赤木君‼ おい誰か、医務室へ案内しろ‼」
「大丈夫です。田岡先生」
「お……おい、赤木……、」
「気にするな、すぐ戻るさ」
 意図せず負傷させてしまった魚住を気遣い笑ってみせる赤木の身体を、陵南の生徒が支えようと背中に手を添える。赤木はそれをやんわりと断り、そして背後を振り返った。
 その背後に花道は立っていた。彼女もまた、主将を心配して駆け寄っていたのだった。
 目的の人物が探す手間なく見つかったことに赤木は僅かに目を見張り、それから、
「おう……」
 と彼女を呼んだ。
「身体はあたたまってるな」
「お……、おうよ‼」
「代わりはお前だ」
「…………‼」
 負傷して尚力強い赤木の言葉を、湘北の選手たちは確かに聞いた。花道は両者の間に立ち、彼らの視線を身体の両面で受け止めながら、それら重圧を跳ね除けん声で答える。
「お、おうよ‼」
 彼女の返答に言葉なく頷いて、赤木は陵南の生徒と晴子に付き添われ体育館を去った。選手たち、観客たち全員が彼を見送った。
 赤木の選択に監督の否やはなく、彼の代打は花道で決まった。本来ならば赤木の次に背の高い、二年生の角田が起用されるべきところだったが、赤木は堅実ではあるがその分いささか瞬発力に欠ける角田のプレイより、怖いもの知らずで負けん気の強い花道の爆発力を選んだ。
 彼女なら強豪・陵南に対しても臆することなく立ち向かうだろう。そう考えていただろう赤木は、初めての試合が誰にとっても緊張するものだということを忘れていた。ましてやこの状況下では――、
「お、出てきたな、あいつ‼」
「ついに登場や、桜木さん‼ 待ちわびたで‼」
 試合再開は残り九分から。点差は七点。勝負はどう転ぶか分からない接戦だ。今や体育館は花道への期待に満ち満ちており、それが主将の抜けた湘北を勢いづけた。
「よう、やっと出番だな!」
 仙道が言う。言葉にさっきのような挑発はない。彼は周囲の湘北を応援するムードをむしろ喜んでいるような様子で花道に笑いかけた。しかし、花道にその笑顔は届かない。彼女はひとり、満ち満ちた空気の中を押し進むぎこちなさで一直線にコートへと向かった。
「……?」
 誰にとっても初めての試合が緊張するように、花道も緊張していた。そしてそれ以上に、会場中の期待の視線が彼女の頭を真っ白にした。
 かつて晴子、水戸、流川、たった三人の期待に応える為に決死の勝負に挑んだ花道である。彼女はそれだけ、周囲の期待とは縁遠かった。
 今まで彼女がどんなに馬鹿をしてもへまをしても、それで周りの誰かや何かに影響することはなかった。喧嘩だって、集団ですることはあっても結局は自己責任で、花道は自分ひとりのことにだけ責任を持てばよかった。そもそも喧嘩なんて行為にその先の展望も希望もなかった。それが今、彼女は皆の視線の中心にいて、彼女の頑張りひとつがチームの運命を左右してしまう。そのことがたまらなく恐ろしかった。
「さあ行こう、一本‼」
 副キャプテンが声を張り上げる。試合が再開し、花道を呼ぶ声と共に最初のパスが彼女に渡る。彼女は受け取り、硬直した。そして再び動き出す。人形が軋むような手足の動きに、トラベリングの笛が鳴る。
 出場してから一〇秒にも満たないうちの反則に周囲は騒然となった。
「さ、桜木……⁉」
 彼女の失態はそれだけでは終わらなかった。マッチアップしていた魚住のシュートを防ぐ際、彼の上から覆いかぶさるように転倒したのだ。打ち所が悪く鼻血を出した魚住を見て、陵南の選手たちはいきり立った。仙道も目と口をあんぐり開けて愕然としている。
 湘北の選手たちも、普段からは想像できない花道の様子に驚くばかりで、落ち着け! と声を上擦らせることしかできない。
「大丈夫だぞ、桜木!」
「落ち着いて!」
「いいか桜木、そんなときは手のひらに人という字を書いてだな……、」
 肩で荒い息をつく花道をこども騙しみたいな言葉で宥めるが、彼女は、何も聞こえん! と叫ぶばかり。どんどん酷くなる呼吸にそろそろ過呼吸でも起こしそうだ。退場を煽っていた陵南の選手たちも、これは何か様子が違うぞ? と言葉を詰まらせた。
 と、そこに流川が静かに近付いてくる。彼は真っ直ぐ花道の背後一足分の距離まで詰め寄ると、唸る彼女の尻をその長い足で思い切り蹴り上げた!
「⁉」
 花道の身体が宙を舞いコートに沈む。騒然としていた体育館に、彼女が崩れる音だけが響いた。
「…………」
 皆の視線が流川と花道に集中する。突然の暴力に晒され今やしんと静まり返った体育館に、流川の低い声がぽとりと落ちる。
「どあほう。何らしくなくキンチョーしてんだ」
「…………ぬ、」
 顔面から転んだ花道が地面に手をつきゆっくりと起き上がる。顔を上げた彼女の乱れた髪の隙間から大きな目がぎらりと覗き、彼女が流川を捉えたことが分かった。
 どうやら視線がかち合ったらしい。とどめの一言。
「どあほう」
「……ルカワ」
 花道が食いしばった歯の間から息を漏らす。そして爆発。
「なんだあコラ、ルカワ‼ キツネ‼ 誰がキンチョーしてるって⁉ え⁉」
「おめーだ」
 意識を取り戻し、そのままスムーズに殴り合いに発展した一年生ふたりに、場は再び騒然となった。
「や、やめろふたりとも試合中だ‼ ああ~~、赤木がいないと……‼」
 木暮も安田も潮崎も、負傷覚悟でふたりを止めるが全くもって歯が立たない。赤木がいない今、唯一何とかできそうな桜木軍団四人は、殴り合い蹴り合い抓り合うふたりの様子をいつの間にか控えのベンチで楽しそうに観覧している。ちなみに陵南の選手たちは、女の子の尻を……、とびっくりしてしまってその場から身動きも取れないでいる。
「お、おい、木暮君」
 いよいよ殴り合いは熾烈を極め、ベンチから角田と一年生三人が立ち上がりチーム総出で止めに入ろうかという頃、ようやく田岡が副主将である木暮に声を掛けた。彼もまた、あまりの事態に呆気に取られてしまっていた。
「こんなんじゃ試合放棄とみなすがいいかね?」
「そ、そんな、殺生な‼」
 試合放棄、その言葉に流川と花道ふたりの動きが同時に止まる。
「ちょっと待てジジイ!」花道は叫び、田岡の言葉を手刀で止めた。「こっからが本番だ! よく見てやがれ‼」
 かくしてようやく試合は再開の運びとなった。試合の合間に暴力があるのか、暴力の合間に試合があるのか分からないような有様だが、とにかく今度こそ試合のターンだ。
「ええと……あ、フリースローだ、ツーショット‼」
 陵南の審判が少し考えた後に指示を出した。フリースローが苦手な魚住はシュートを二本とも外し、試合は依然残り時間九分、得点差は七点差のままだ。リバウンドを陵南が抑え、コートの内を選手と共にボールが駆ける。ボールはぶつかり合う両者の手に弾かれて、逃げるようにコートの外へと飛び出した。そこに田岡の怒声が響く。
「ルーズボールは最後まで追わんか‼ 気を抜いてる奴はいつでも外すぞ‼」
 血反吐を吐くような練習を課すと有名な陵南の監督は選手たちの精神面への指導も厳しい。彼はレギュラー陣だけでなく控えの選手ひとりひとりに向けて檄を飛ばした。
「おまえらもよく覚えとけ‼ ボールに対する執着心のない者は試合には使わんからな‼」
「はい‼」
 田岡の激励にコートの中にもピリリとした緊張が走る。ギアを一段上げた植草のドリブルからのパスを越野が受け取り魚住に回す。
「魚住さん‼」
 高い所で軌道を描くボールは正確なコントロールで彼の頭の上へ。センター赤木がいない今、遮るものは何もない。筈だった。
「フン‼」
 さっきまでのぎこちなさはどこへやら。瞬きすれば見逃してしまうような速さで花道は越野と魚住の間に回り込み、向かい来るボールを弾き飛ばした!
 ボールはパスを放った越野を飛び越え、陵南のベンチの方へと逃げてゆく。彼は駆け出しボールを追った。甘かったか、と舌打ちをひとつして振り返る。
 その一瞬、目の中に一陣の赤い風が飛び込んで来て、越野は驚愕した。
「⁉」
 魚住へのパスをカットした花道が、自らボールを奪おうと越野を追いかけてきたのだ。あっという間に隣に並んだ彼女に負けまいと越野もスピードを上げる。横目で睨むと、彼は、彼女が追いかけていたのが自分ではなくボールただひとつであることに気が付いた。白線を越えて跳ねたボールを捕まえようと花道が空を飛ぶ。彼女の身体はそのまま一直線にコートの外、背を向け逃げる田岡監督の身体の上へ――、
「ぐああああっ‼」
 ボールを掴んだ花道の身体が、倒れこんだ田岡の背中の上にどすんと落ちる。田岡は驚愕した。一〇年以上の監督歴の中でこんなにも躊躇いなく緩衝材にされたのは初めてだった。――そして、彼女の身体。
(……何だ、この肉体は⁉)
 床と花道の身体の間で田岡は驚きのあまり拳を握る。今、自分の背に手を突いて起き上がっている彼女の身体、その筋肉の密度と質感は、田岡の監督人生の中で初めて出会うものだった。これはスポーツマンの肉体ではない。田岡は直感した。
 質のいい筋肉の密度と、それを使いこなす緊張と弛緩のコントロール。ボールを掴むや否や、田岡の身体をクッションにした瞬発力。そして、怪我を微塵も恐れない勇気。それらは全てバスケットの為に培ったものではない。過酷な環境で生き抜くために進化した、動物の特性だ。コートの中が秩序を持った文明社会なら、花道の動きは野生を生きる獣のそれだった。一切のルール、常識の外で彼女は生きている。
(……才能はある。しかしこいつは素人だ‼)
 田岡は起き上がり、彼女の大きな背を睨んだ。ならば勝てる‼ と彼は思う。何故ならこれは狩りや命のやり取りではなく、秩序とルールを持ったバスケットボールの試合だからだ。
 勝利を確信した田岡に対し、生徒たちは今目の前で起きた出来事をどう受け止めようかと狼狽えている。感心しきりの相田や、敵のプレイに学ぼうとする控えの選手たち。反発する越野や魚住と、その反応は様々だが、その中にあってもやはり仙道だけは、何もかも分かったような目で花道を見ていた。
「ひたむきさだけでバスケットができるか」
 そう言った魚住に対し、彼は、
「スピードもありますよ、あいつ」
 と擁護してみせる。その声を客席代わりのベンチで聞いた高宮は、
「何か……怪しくねぇか、あのエース」と疑問の小石を仲間に投げた。「あいつが人間離れしてるのはそーだけど、シロートをあそこまで評価できるか?」
「本物にしかない嗅覚ってやつがあるんじゃねーのか?」
 野間が答える。言葉を受けて、大楠が神妙な顔で言った。
「……或いは、純粋にタイプとか?」
 皆何となく横目で水戸を盗み見た。水戸は何も言わずただニコニコと花道のプレイを楽しんでいる。野間が続ける。
「あいつ、見た目は悪くねぇもんなぁ。おっかないけど」
「馬鹿だけど」
「頭突きイテーけど」
「……酷い言い様ね」
 悪ノリする三人に、近くにいた松井が突っ込む。彼女たちも、友人の兄が負傷した際にギャラリーから下りてきていたのだった。勿論、常識人である彼女たちはベンチではなく邪魔にならない壁際に立って試合を見学している。
 藤井は目の前のプレイに目を釘付けにしながら興奮の滲む声で言った。
「でも、確かにあの中でエースに食いついていくなんて凄いよ。……晴子にも見せたかったなあ」
 水戸はやはり会話には加わらなかったが、会話は彼の耳にも届いているようだった。二メートル超えの主将相手に猛烈なディフェンスを見せた花道は、そのまま魚住からボールを奪い、ドリブルで駆け出してゆく。晴子が見つけた不良少女は、ひと月足らずの間に随分とバスケット選手らしくなった。確かに、彼女が見たらどんなにか喜んだことだろう。
「……みんな、『あいつは自分が見つけた』って思っちまうんだよな」
 呟きは、縮まる点差に沸く周囲の声にかき消された。
 花道のディフェンスが起爆剤となり動き始めた試合の流れは、流川が足を攣って転倒しても止まることはなかった。むしろ彼は自分の足に蹴りを食らわせてきた花道の尻をまたしても蹴り飛ばし、自分の足で選手交代を取り消しに向かった。湘北名物・意地の張り合いは他校でも関係なく発揮されるらしい。ふたりは張り合ったまま並んで走り出し、口喧嘩をしたままシュートに向かう。花道の取ったボールは安田に渡り、安田のシュートをゴールが弾く。流川は跳び上がりボールを掴むと、そのまま自分でシュートを決めた。これが赤木の抜けた湘北の、初めて見せたリバウンドであった。
「よーし、これでまた三点差だ! ナイスリバン、流川‼」
〝リバウンドを制する者は試合を制す〟。これは昨晩赤木が花道に言って聞かせた言葉だが、決して大げさな過言ではない。シュートの外れたボールを取ることはつまり、失点を防いだ上で、新たな得点の機会を作ることに繋がる。更に、強力なリバウンダーがいることは、周りの選手にシュートへの安心感を与える。赤木がいると一本芯が通るという彩子の言葉は、彼の鉄壁のディフェンスに拠るところもあるだろう。
 そのリバウンドを、花道が今、思い出した!
 残り五分、点差は五点。縮んでは離される点差と、高さが足りず取れないリバウンドとに焦り始めた湘北選手の頭の上で、植草の放ったボールが軌道を描く。終盤の疲れの為にか距離が短くなったボールを掴み取ろうと魚住と仙道が跳び上がる。ボールはゴールに弾かれて、少年たちの手の上に躍り出た。
「リバウン……」
 叫ぶ彩子の眼前で、風を巻き上げて花道が空を飛ぶ。彼女の身体は先に跳んでいた少年たちを軽々追い越し、一瞬でコートの一番高いところへ到達した。それは即ち、ボールのある場所だ。花道の右手がボールを掴む。彼女は掴んだそれを素早く胸元に引き寄せ両手で抱え込んだ。これはもうあたしのものだ! そう言うように。
「取ったっ……」
 だから、足元で待ち構えていた越野が彼女の手にしたボールを掴んでも、花道は決して譲らなかった。力任せに身体をねじって越野の身体を振り払う。バランスを崩した彼はものの見事に吹っ飛ばされた。
「……お、お、おおおおおっ‼」
 僅かな沈黙の後、体育館が衝撃に揺れる。入部前の赤木との決闘と同等か、それ以上のどよめきだ。
「さ、桜木‼ ナイスリバウンドだ‼」
「今メチャクチャ飛んだぞあいつ⁉」
 歓喜と驚嘆。はっきりとふたつに分かれた音の間で審判が笛を鳴らす。ヘルドボールの指示に副キャプテンはにこやかに応じ、花道の手からボールを取り審判に渡した。
「この試合はあたしが制す‼」
 褒められて調子に乗った花道が流川にちょっかいを掛けている間に、田岡は魚住をベンチに呼び指示を与えていた。花道の肉体の特性から、彼女の才能と経験値を正しく読み取った田岡である。彼は魚住に花道へのスクリーンアウトの徹底を指示し、そして彼女が恐らく全くのバスケット初心者であることを告げた。
 残り五分。ここから彼女はしばらく苦戦を強いられることとなる。
 誰よりも速く最高到達点まで跳んでボールを掴む。今しがた花道が行ったことはリバウンドにおいて重要なことではあるが、全てではない。本来、リバウンドとは相手の手からシュートが放たれた瞬間に始まるものだ。すなわち、ボールがどこに落ちるのかを予測して、有利なポジションを取り、ボールを奪う。勿論相手もボールを取る為に同じことをしているから、必然的にゴール下は場所の奪い合いになる。この場所取りこそが、リバウンドの要なのだ。リバウンドを制する為にはまず、相手を制す必要がある。
 花道の飛翔は魚住の大きな身体によって壁や天井のように阻まれ、封じられてしまった。今や彼女はその巨体の周りをぐるぐると行き来することしかできない。最初の衝撃が大きかっただけに、彼女がリバウンドを取れないことへの周囲の落胆は大きかった。花道は半ば無意識に晴子の姿を探した。
 状況を打破できないまま時間は進み、残り時間は三分と少し。安田がスリーポイントを決めたことで一時陵南に揺さぶりをかけたが、それはエース・仙道の一声で収まってしまった。彼の優しい声のトーンや独特の落ち着いた雰囲気は、劣勢にあるときにこそ効果的に作用する。
 それに加えて、陵南には主将である魚住の視覚的な存在感と、選手に寄り添い叱咤激励し続ける田岡監督の精神的な支えがあった。どれも湘北には欠けているものだ。
 コートの外で、彩子は隣に座る安西を見た。深く椅子に腰かけて真っ直ぐに選手たちを見つめる彼が頭の中で何を思い描いているのか、やはり彩子には分からない。それが分かれば安心することができるのだろうか? 視線を再びコートに戻す。白線の向こう側に立つ五人は今、強豪校以上のものと闘っている。
「ディフェンス一本‼ 死ぬ気でとめるぞ‼」
 木暮が声を張り上げる。安田と潮崎が呼応し叫んだ。どちらも沈む心を下から押し上げるような必死の声だ。流川も靴底を鳴らし答える。
「スクリーンアウトだ、桜木っ‼」
「ぬっ‼」
 木暮の声に答えて花道が両手を広げる。がしかし、それもまた魚住に阻まれ、彼女はポジションに入り込むことができない。魚住のダンクシュートがゴールを鳴らす。陵南は沸き、湘北は委縮した。
 残り時間は三分。遂に勝負は決まってしまった。そう錯覚するような力強いダンクだった。するとそこに、体育館の鉄扉が開く音が響いた。そして続く、太く深く響く大声。
「ちが~~~う‼」
「……あっ‼」
 木暮が声を上げる。そのたった一言は、彼がどれだけこの瞬間を待っていたのかを示すのに十分な音をしていた。今、彼の胸の内に希望の灯がともったのだ、と。そしてそれは他の部員たちにとっても同様だ。
 コートに立つ選手たち、ベンチに控える部員たちの表情に灯がともる。
「バカタレが。なんだそのリバウンドは」
「赤木‼」
「赤木さん‼」
 花道にとっても、赤木の帰還は喜ばしいものだった。正しくは彼の背後に寄り添っている晴子の存在。
 彼女は赤木の後ろからスコアボードを覗き見ると、パッと明るい声で言った。
「六点差‼ スゴイわ‼ よくくらいついてる‼」
 彼女がそう言うと、たった今まで絶望的だった点差がどうってことないみたいに思えるから不思議だ。花道はにこにこと笑い、試合も忘れて彼女の方に歩み寄った。その首を赤木が掴んで放り投げる。
「試合中にウロチョロするな!」
「ふ、ふぬっ……‼」
 花道を放り投げた赤木はその足で審判の元へ向かい、メンバーチェンジを申し出る。彼は流川をベンチに呼んで交代を告げた。流川は珍しく何か言いたげな顔で不服を示したが、自分が代わるべき状況であることをすぐに受け入れ、大人しく引き下がった。彼が荒い音を立ててベンチに腰を落とすと、部員たち皆は微笑み、彼の戦績を讃え労った。
「流川君」
 その流川を安西が呼ぶ。流川は肩で息をしながら監督の方を振り向いた。
「休憩は一分だけです」
「……!」
「ラスト二分が勝負。行けますか?」
 問いかける言葉は穏やかな疑問形であったが、返答はあらかじめ決められているように思われた。流川を見据える安西の唇に笑みはない。彼は曖昧な希望ではなく、具体的な勝利への道筋を見ているのだった。励ますことも寄り添うこともしない彼の姿はしかし、紛うことなき監督の姿である。
「ウス」
 流川は芯の通った声で頷き、監督と同じ方を見た。視線の先には、今まさに空を飛ばんとする花道の姿があった。
「リバウンド‼」赤木が叫ぶ。
「お、おう‼」花道が答える。
 赤木がコートに戻ったことで、体育館は俄然活気に満ち溢れた。応援する声に張りが出てきたこともそうだが、何より赤木自身が誰よりも声を出した。ディフェンスは気持ち、という彼の信条が掛け声ひとつに表れているようだ。
 また、彼は試合の最中でも花道に対する指導を忘れなかった。リバウンドの位置取りが悪い彼女に対して、違う! と厳しい渇を入れる。この助言はメンバーの誰にもできない、ゴール下で戦う赤木だからこそのものであった。
 赤木の指先を掠めながら、仙道の放ったボールがゴールまでの軌道を描く。その一瞬、花道の身体が素早くターンし、魚住の前に躍り出た。彼女の身体の重心がぐっと下がり、敵のゴール下への侵入を防ぐ。肘を張って身体を大きく使い、尻で相手の太腿を抑えるような動作は、スクリーンアウトの基礎を忠実になぞった、バスケットの動きだ。流川は目を見張った。
 軌道の逸れた仙道のシュートはゴールリングに弾かれて落下する。花道は高く高く飛び上がり、両手でしっかりとボールを掴んで着地した。
「よーし、そうだ‼」
 赤木の声が花道の背中を強く励ます。その勢いで彼女はパスを放ち、それはそのまま湘北の得点へと繋がった。七六対七四、点差はとうとうワンゴール差。残り時間は約二分。
「まだまだ行けるぞ!」
 観客の誰かが叫ぶ。その通りだ。そしてそれは直後現実のものとなった。
 安田からのパスを受け取った潮崎が、ボールを木暮へと繋ぐ。彼はフェイントで池上のマークをかわしてボールを受け取り、スリーポイントラインの外からシュートを放った。ボールは涼しい音を立ててゴールネットの中を通る。七六対七七。遂にゲームはひっくり返った!
「ナイッシュー! 木暮さん‼」
「いけるぞ‼」
 活気に沸く湘北とギャラリーに、仙道はスコアボードに目を向ける。彼は大きく息を吸ってからゆっくりとそれを吐き出し、
「やるなあ、湘北」
 と誰に言うでもなく言った。
「オッケー」
 今、彼の中でスイッチが切り替わったのを赤木は感じた。
「……ここからだ」呟く。
 去年の試合では、一年生である仙道たったひとりに四七点を奪われ敗北した。あのときの仙道のスイッチも、赤木に対する魚住の劣勢を感じ取っての切り替わりであった。彼の集中力は窮地の中でこそ研ぎ澄まされるのだ。
 仙道の手にボールが渡る。それは赤木の胸に、メンバーを交代すべきか? という迷いが生じたのと同じタイミングで行われた。仙道はボールを掴んだ刹那、目の前の花道をいとも容易く抜き去り、油断の為に反応の遅れた赤木のブロックを突き破ってダンクを決めた。更にそこからファウルをもぎ取り、一瞬にして三点を稼ぎ試合を逆転する。
 残り時間二分を前にして垣間見たひとりのプレイヤーの鮮やかな変化に、湘北と陵南、両者の胸に同じ言葉が浮かぶ。これが天才か。――仙道彰は紛れもない天才であった。
 そしてこのプレイは、もうひとりの天才の心に火を点け燻ぶらせた。尤も、こちらは自称・天才。花道だ。怒りと羞恥に肩を震わせる彼女に対し赤木が言う。
「本気になった仙道を止められる者は県内の強豪にすらひとりもいないかもしれない。お前が今抜かれたのはそういう男なんだ、お前の恥じゃない」
 だから仙道は俺がマークする。そう伝えすれ違う肩を、彼女の震える手が掴んで止めた。花道は無言で首を横に振る。その手は固く、赤木の力を以てしても振り払うのは困難だろう。彼女が口を開く。飛び出た言葉は誰に言うでもない、彼女の決意だ。
「センドーはあたしが倒す!」
 これまで何度も口にした彼女の言葉は、今になってようやく立体的な像を結んだ。空想の中の、誰もが持て囃す霞がかった天才ではない、今この瞬間目の前に立っている、長身で髪を尖らせた、不敵な顔で朗らかに笑うこの男を、あたしが倒すのだ、と。
 木暮からボールを奪った仙道が花道と赤木、ふたりの間を切り抜けてゴールへと突き進む。その背に向かって花道は叫んだ。
「コラァちょっと待てセンドー‼」
 風となった彼女が仙道の背を追いかける。駆け出しからのトップスピードで花道は彼に迫るが、しかしそこは既にフリースローラインの向こう側。ブレーキを掛けた仙道の身体を彼女は追い越す。振り返った瞬間、彼の手からボールが離れた。ゴールネットがパサリと揺れる。
「く……くそう、」唸る花道に赤木が言う。
「よく追いついた」
 その言葉は彼女を奮起させた。
 ディフェンスは気持ち、という赤木の言葉を体現するかのように、花道は仙道に立ち向かった。何度無様に抜かれようとも諦めずに食らいつく。気持ちが折れたときに初めて負けが決まるのだ。ならば諦めなければ終わらない! と全身で吠えるような彼女の戦いぶりは、立ち向かい打たれるうちに研ぎ澄まされて鋭くなり、やがてプレイと呼ぶにふさわしいものになっていった。彼女は今、コートの上で仙道とワンオンワンの勝負をしているのだ。まるでビデオを早回しするように目まぐるしく変わってゆく彼女の姿に、監督は、赤木は、仙道は、流川は目を剝いた。
 バチンッ! 花道の手がボールに触れる。弾かれたボールは仙道までの軌道を変えてコートの外へと飛び出してゆく。花道は追いかけて飛び、仙道は息を弾ませながら、飛び跳ねる赤の行方を目で追った。
「桜木さんっ‼」
 晴子が叫ぶ。どうか届いて欲しいという祈りを含んだ、縋るような声。しかし花道の手は指先の距離で届かず、彼女の頭はそのまま壁に激突した。
「あっ!」
「だ、大丈夫か⁉」
 笛の音が試合を止める。
「っ……くそう‼」
 振り向いた彼女の乱れた赤い髪の間から、赤い血が滲んでいるのが見える。汗で薄まった鮮やかな赤を見て、仙道は顔をギクリと強張らせた。花道は彼の反応を見て、自分の額から血が噴き出ていることを認識すると、汗まみれの腕で乱暴にそれを拭った。
 ふたりの姿を遠くで見て、流川が沈黙の後に口を開く。
「先輩……、そろそろじゃねえ?」肩に掛けていたタオルを乱暴に引いて払う。「ラスト二分だろ」
 約束の一分が過ぎようとしていた。
「メンバーチェンジ、湘北‼」
 選手交代の笛が鳴る。潮崎の手からバトンが渡り、流川がコートに舞い戻った。喜び勇む親衛隊たちの声の間で安西が立ち上がり、一年生ふたりを手招きする。
 陵南の選手たちは、そこにいる大人が田岡と同じ監督であることを思い出すと、それまでとは異なる様子で驚いた。口うるさくも親身に語り掛けてくれる田岡監督の指導に慣れている彼らにとって、安西の寡黙さはある種異質なものとして彼らの目に映っていた。
「湘北の監督が動いたっ!」
「あんまり動かないからケンタッキーのおじさんが置いてあんのかと思ったぜ」
「オレも」
「バ……バカモンが‼」
 少年たちのひそひそ声を叱りながら、田岡は机の向こうに耳を澄ます。彼は、安西の語る戦略がどうしても気になって落ち着かない様子であった。大学バスケットボールの世界を去ってからの安西には目立った戦績もなく、また日頃大会などで目にする――戦績の為に会う機会はそう多くなかったが――彼の姿は常に真っ直ぐに凪いでいて、怒ることもなければ喜ぶことも少ない様子は、掴みどころのなさ、取り付く島のなさを田岡に感じさせた。その彼が、自らの意思で立ち上がり選手たちを手招いている。いいや、遡れば今日の練習試合や日程の変更に関してだって、考えてみれば彼の立てたささやかな波風だった。……それは、どういった心境の変化だろう?
 安西の声は低く小さく、彼は二言三言囁くだけで短く指示を終えてしまった。お陰で彼が何を口にしたのか田岡の耳には届かなかった。表情からも読み取れる情報はない。智将・猛将の戦略とは……? 後を追い掛ける者の向上心で、田岡はそこにいる三人の様子をじっと見つめた。
「なにーーっ⁉ ちょっと待てオヤジ‼ それはいかん‼」
 安西の正面に立つ選手ふたりの騒がしい方が、驚きのあまり大声を上げる。隣に立つ少年も、切れ長の目を僅かに見開いて安西を見つめている。安西は花道の抵抗をにこにこと躱して顎を撫でた。花道は何を言っても無駄だと察したのか、抵抗の対象を流川に移し、彼のユニフォームをぐいと掴んだ。途端にギャラリーが騒ぎ出す。親衛隊だ。
「ちょっと! 汗だくの手で触んないでよね‼」
「あんたさっきその手で血拭いてたでしょ⁉」
「ちゃんと消毒しないさいよね‼」
「……ですってよ、桜木花道」
 彩子が苦笑する。あの子たち、何だかんだ心配してんのかしら? と彼女の手がベンチのタオルを拾い上げるよりはやく、流川は自分のタオルを拾い上げ、とうに血の止まった彼女の額をガシガシと拭った。
「ぼさっとしてんな。さっさと行くぞ、どあほう」
「あぁっ⁉ 何だとコラァ‼」
 二階ギャラリーから悲鳴のような声が上がった。
 審判と安西との遣り取りを背中で聞きながら、ふたりはコートへと向かう。試合はいよいよ最終盤戦。点差は四点、ツーゴール差で陵南が勝っている。逃げる方も追いかける方も気合が入り、コートの内も外も白熱していた。残る力を振り絞るようなボールの奪い合い。木暮の猛追を躱した越野がバウンドパスを仙道に送る。
「仙道‼」
「おう‼」
 仙道の手がボールを掴む。彼は身を翻しゴールを見上げた。その眼前に、ふたつの影が立ち塞がる。
「‼」
 たった今まで突っかかっては喧嘩をしていた花道と流川が、ダブルチームで仙道を封じようとしていた。
 これが安西先生の戦略か! 田岡が驚きに立ち上がる。控えの部員たちも前のめりになり食い入るようにコートに見入った。
「あたしの足ひっぱんじゃねーぞ、ルカワ‼」
「よそ見してんじゃねえ、初心者」
 流川への対抗心が勝ってつい彼に視線を向けてしまう花道に、流川はそれではいけないと指示を出す。していることはさっきまでの赤木と同じだが、普段の関係性の為に彼の言葉は花道の反感を大いに買った。
「おもしれえっ‼」
 仙道がにっこり笑って思わずという声を上げる。腹の底から響く明るい声だ。彼は本当に楽しくて仕方がないのだろう。ドリブルの動きにもキレが増す。彼の動きが良くなると、引っ張られるように陵南全員の動きが良くなり、結果それが湘北の動きも変えた。
「ヘルプだ! 安田、木暮、声を出せ‼」
「おう‼」
 声と音の隙間を探って、花道は仙道の足元に手を伸ばす。彼の目がパスを出す相手を探しているように見えたのだ。「もらいっ‼」
 が、それは花道の早合点で、ボールは仙道の手に吸い付くようにして花道の手から逃げた。仙道に向けていた彼女の身体が僅かに重心を崩す。瞬間、仙道が足を踏み込む気配を感じ彼女は焦った。
(しまった‼ 抜かれる‼)
 そこに流川の身体が割り込んで仙道の進路を塞ぐ。花道は慌てて態勢を整えた。
「取れもしねーのにむやみに飛びつくな、どあほう!」
「ああっ⁉」
「よそ見すんな、相手を見てろ‼」
 流川の尤もな助言はそっけないのに一言多い。
「腰を落とせ、足を動かせ、相手の目を見ろ‼」
 花道が敵に視線を固定した途端、流川の助言が弾丸のように飛んできた。肌を掠めるだけで火傷しそうな言葉の数々、その内に自分と同じ熱を感じて、花道の胸に怒りよりも先に楽しい気持ちが沸き上がってくる。
 ――やっぱりこいつ、あたしとおんなじくらい負けず嫌いだ!
「珍しくよくしゃべるじゃねーか、ルカワ! この天才の力を借りたくなったかね⁉」
「負けるよりはましだ」
 花道は思わず笑った。
「気が合うじゃねーか、キツネ! あたしもお前は嫌いだが、負けるのはもっと嫌いだ‼」
 花道の言葉に流川は何も答えなかったが、代わりに対峙する仙道が弾む声で口を挟む。
「楽しそうだな、俺も仲間に入れてくれよ!」
「うるせーセンドー!」
「仙道‼」
 叫んだ花道の言葉に越野の声が重なる。仙道の背後から、彼がパスを受け取ろうと迫ってきているのが見えた。
「お!」
 仙道の声にも安心が滲む。彼は短く息をついた。
 油断だっ! 花道は思い手を伸ばす。と、その動きを先読みしていた仙道の身体がグンッと低く沈み込み、これは罠だと気付いたときには花道の身体は抜かれていた。
「ちっ」
 流川の舌打ちを追って花道も走り出す。仙道はゴール下の赤木の壁まで一気に駆け抜けると、彼の足の真横にボールを弾ませて、魚住へとパスを放った。魚住がシュートを決めた。
「よォーーし‼」
 仙道が拳を握る。その無邪気な喜びようを見て、田岡は、彼はきっと、この出会いを待っていたのだ、と直感した。この喜びこそが、彼にとってのバスケットなのだ。
「気ィ抜いてんじゃねー」
「ぬっ、なんだと‼」
 流川の有難くもなんともない指導に花道が憤りを返す。が、明らかに自分の失態であったのであまり強くは出られない。前髪をかき上げて気合を入れ直す彼女を見て、流川はぼそりと、
「それから」
 と続けた。
「ンだよ」
 花道がぶっきらぼうに答える。
「……別に気は合わねー」
 躊躇いのない分当たりの強い助言に対し、こちらは随分と控えめな声だった。花道は、何の脈絡もない彼の言葉が先の自分の言葉への返答であると気付くと、
「あーあーそうかい!」
 と口を尖らせ臍を曲げた。流川のことは嫌いだが、嫌われるのは面白くない。
「おう、喧嘩か? 一年坊」
 そこに仙道が口を挟む。相手は俺だぜ? とでも言いたげな挑発に、ふたりは同じ闘志に目を燃やし、共通の敵に立ち向かっていった。