Fly girl, in the sky 第七話 - 3/3

 試合は八七対八六で湘北が敗北した。神奈川県優勝候補の強豪校と緒戦敗退の弱小校の練習試合は、そこにいる誰もが予想だにしない大接戦の末に幕を閉じた。
 片付けと着替えを終えた一同が再び体育館に集合すると、換気のために開け放った扉の向こうから風と共に夕刻前の穏やかな陽射しが差し込んできた。すっかり熱の穏やかになった体育館で、両主将は今度こそ固い握手を交わす。元々真面目で気持ちの優しい青年たちである。苦い敗北と、同じだけ苦い勝利を噛み締めながら、ふたりは夏の再会を誓い合った。
「次は負けんぞ」
 互いに心は同じである。
 その隣で、安西と田岡の両監督も挨拶を交わす。振り返りや質問、丁寧な礼を交わした後、田岡は改めて安西の名を呼び何か伝えようとしたが、彼は言葉が舌を離れる前に口を閉ざした。
 ――あの一〇番は、鍛えればモノになる。
 それを見たいと思う気持ちと、しかし敵として対峙する日は来ないだろうという虚しさが彼に言葉を吞み込ませた。彼女は一五歳の少女なのだ。すっかり忘れてしまっていたが。下ろした髪と改造制服の長いスカート姿に、彼は忘れていたということを思い出した。
「おう、」
 爽やかな挨拶を交わす主将たちのいる一方で、そうはなれない選手たちの姿もある。陵南のエースである仙道が、湘北のホープである流川に右手を差し出す。流川はその手をじっと見つめた後、ふん、と鼻を鳴らして差し出された手を弾いた。最初からそれを予想していた仙道は特に驚きもせず、にこにことしていた。
 そしてもうひとり。
「おお、スケバン」
「うるせーちげーよ」
 制服姿の花道を珍しいものでも見るように上から下までじっくり眺めて、仙道は払われたばかりの右手を差し出す。
 彼女はその手を唇を尖らせ見つめた後、おずおずと握り返した。それから、ふと沸き上がった悪戯心と対抗心で、彼の白い大きな手を力いっぱい握り締める。彼はやはり驚いた様子もなく微笑み、それから、
「俺を倒すつもりなら、死ぬ気で練習して来い」
 と額を寄せ囁き彼女を挑発した。仙道は覗き込んだ彼女の目に火が点き燃えるのを至近距離で見届け、例の太陽顔で笑った。
 すると、仙道の囁く声が届いたのか、花道の背中の向こうで流川が気配のない猫のような顔でこちらを見ているのに彼は気付いた。仙道は目線だけで意地悪く微笑んでから、ぐんっと花道の手を引いた。突然の悪戯に花道の身体はバランスを崩す。
「……だけど、怪我には気を付けて」
 学ランの胸に飛び込んできた赤い頭の思いがけず柔らかな前髪を手櫛で梳いて、仙道は左手で彼女の額に触れる。周りにいた両校の生徒たちは呆然とした。彼らもまた、たった今花道が女の子であることを思い出したようだった。
「お、赤くなった」
 火が点いたように真っ赤になった花道は、仙道の手を慌てた様子で振り払い、顔を背けて叫ぶ。
「何しやがんだ馬鹿野郎‼」
 怒声も罵声も何のその。乱れた髪を直してやろうか、とにこにこ顔の仙道がわくわくと手を伸ばす。そこに背後からぬっと現れた大きな黒猫が仙道の手を叩き落とし、その手で花道の髪を後ろからぐいと引いた。
「うぐっ⁈」
「油売ってんじゃねー、どあほう」
 海老反りになった彼女の額に、不機嫌を隠しもしない流川の声がぶつかって落ちる。彼は八つ当たりで掴んだ髪をパッと離し、制服の襟首を掴み直すと、彼女をずるずると引っ張って湘北の群れに連れて帰った。
 ようやく我に返った花道は、しかし今度は怒りに我を手放して騒ぎ主将に殴られ、理不尽だ! と泣き喚く。確かに、今のはエースとホープのふたりが悪い。
 花道と流川を除く湘北の生徒たちは、最後まで頭を下げながら体育館を去っていった。
 騒がしい制服の一団を見送って、陵南の生徒たちはようやく人心地つく。
「何だったんだ、あいつら……」
 力を抜いた越野の口から呆れとも苦笑ともいえない言葉が漏れて、他のメンバーも苦笑する。彼らはこどもらしい無邪気さと残酷さで、田岡が口にしなかった言葉の先を紡いだ。
「あいつ、インハイ出るつもりですかね?」
 植草の言う〝あいつ〟が誰かなんて、誰も口にしなくても分かる。
 魚住が腕を組んで首をひねる。
「さすがにベンチじゃないのか?」
 声は半信半疑、疑の割合が少しばかり多いだろうか。
「いや、分からんぞあの調子だと」池上が続ける。「どうするよ? 男の格好で出てきたら」
「次はボコボコにしてやる」
 血の気の多い越野の言葉に、仙道は笑みを深めた。
「越野お前、悪い影響受けたなァ」
 彼らの期待を含んだ戯れ言は予言となって後に実現するのだが、そのことは勿論まだ誰も知らない。陵南も、湘北も。花道自身も。
 敗北で終わった練習試合。つかみ取った果実は苦いが、それでも実りに違いないだろう。
 一同は校門を抜け駅へと向かう。踏み切りの向こうに広がる海は夕方の陽射しを受けてきらきらと輝いている。