Fly girl, in the sky 第八話 - 2/3

「――さ、脱ぎなさい」
 ギャラリーを下り、体育館内にあるだろうトイレを探していると、目的の場所のすぐ傍に更衣室があるのを彩子は見つけた。誰もいないのをいいことに、彼女はそこを束の間借りることにする。本来の目的にはこちらの方が都合がいい。誰もいない更衣室のベンチに手にした荷物をどさりと置いて、彼女は花道にスカートを脱げと命じた。
「?」
「そんな長いスカート履いてるからスケバンなんて言われんのよ。あたしのこれ履いて。ホックの位置調整すればいけるでしょ?」
 彩子は念のため持ってきていたジャージに手早く着替え、自分の制服のスカートをまだたじろいでいる花道に渡した。ついでにカチューシャを外し、髪を後ろでひとつにまとめる。花道はもごもごと答えた。
「で、でもあたし、足ばっか長くて気持ちワリーって」
 その思いがけない内容に彩子は驚く。
「はぁ⁉ 誰がそんなこと言うのよ。何か言われたらあたしが黙らせてあげるから! ……って、あんたもしかして、だからそんな長いスカート穿いてんの?」
「ふ、ふぬ……」
 独特の唸り声は肯定の意味だ。
「あんた、意外なところで繊細っていうか、内向的っていうか……ほら、試合始まっちゃうわよ」
 彩子は軽く花道の背中を叩き、鞄からメイクポーチを取り出す。道具を探していると、花道はようやく心を決めたのか、スカートのホックを外した。
「時間ないからちょっとだけ」
 スースーする足元にもじもじしている花道をベンチに座らせ、たっぷりとした髪を櫛で梳く。細くて柔らかな手触りの髪は痛みも少なく、パーマを当てている彩子からすれば羨ましい。手早く整えた髪を黒いカチューシャで後ろに流すと、それだけで印象がガラリと変わる。彩子は頷き、今度はビューラーを手に取った。
「あとはリップだけ……ン、できた」
 睫毛を上げて口紅を塗る。元々華やかな顔立ちをしている花道は、少し色を足すだけでぐっと洗練されて大人っぽい印象になった。立たせるとやはりもじもじしているのが難点だが、暴れ回るよりはいいだろう。
「その感じで大人しくしてなさい。お坊ちゃま学校なんだから、ここ。いい? くれぐれも殴り合いの喧嘩なんかしちゃ駄目よ?」
 花道の腕に手を回し出口に向かう。ドアを開ける前に、彩子は大事なことを忘れていた、というように立ち止まり花道の目をじっと見上げた。
「あんたは優しいし可愛い子よ。『なんて素敵な子を振ってしまったんだ』って思わせてやりましょう」

 彩子と花道がギャラリーに戻ると、皆思いがけないものを見る目で彼女を見た。今や花道の姿は背こそ高いが他の女子生徒と変わらない。
 皆のまん丸い目に居心地が悪くなった彼女は、頬を赤くして、何見てんだよ、と唇を尖らせ、睨まない! と早速彩子に叱られた。
「ほら、でかい男の間に立ちなさい」
 ぐいぐいと背中を押され、赤木と流川の間に立たされる。
「ちょうどいいじゃない。分かんないことがあったらふたりに聞きな」
「……ゴリに聞く」
「おう、何でも聞け」
 少しでも流川から距離を取ろうと赤木に身を寄せる花道に、流川はむっつりとした顔で、
「もう試合始まる」
 と言った。眼下では白と深緑の二組が整列していた。
 海南大附属高校バスケットボール部といえば、過去一六年間インターハイ出場を逃したことがない、全国でも有名な強豪校だ。前年度では遂にベストフォーへの進出を果たした。残念ながらその年の優勝校である山王工業高校の前に敗北を喫したが、依然神奈川の王者の名は彼らのものだ。
「その海南で『怪物』と呼ばれているのが、主将である牧という男だ。元々海南は強豪校だが、ヤツが加わったことで明らかにレベルが上がったと言われている」
 赤木が花道に言って聞かせる。木暮と角田を挟んだところで彩子が頷いた。
「高い技能を備えた攻撃の要だけど、恐ろしいのは彼の影響力ね。勇猛果敢、勝ちに対する貪欲な姿勢が周りのプレイヤーの能力を引き上げる……」
「うん。そういう部分はうちの赤木と同じだな。それからセンターの高砂。パワーはないが、ムラのない技巧派だよ。フォワードの武藤もいい選手だ。……あと噂で、いいシューターが入ったって聞いたけど、一年かな……?」
 誰だろう? と、木暮が言及した〝いいシューター〟は、スターティングメンバーではなく控えのベンチに座っている。また、いいシューターが入ったのではなく、いいシューターになった、というのが正しいところだ。言及された神宗一郎は、隣に座り大きな目で試合を食い入るように見つめている、一年の清田信長に話しかけた。
「ねえ、信長」
「えっ、何スか、神さん」
 呼び掛けられた清田が顔を上げる。プレイに集中するあまり、先輩の声がほとんど耳に入っていなかったようだ。神は独特の人好きのする穏やかな笑顔で言った。
「信長の好きなタイプって、背の高い女の子だったよね?」
「えっ⁈ ……え、ええ、そうっスけど……」
 突然何言ってんだ、この人。という気持ちの隠し切れない声。その表情は、でも先輩だから答えなきゃ、という顔だ。思っていることが全部表に出る清田は、上級生たちから可愛がられている。
 ちなみに彼の好みのタイプであるが、正確には背の高いモデル系で、気が強そうだけど笑うと可愛い女の子、だ。ポニーテールだと尚よい。何故それを神が知っているのかといえば、入部すぐに行われたミニゲームで負けた清田が洗いざらい白状させられたのだ。馬鹿正直に答えた後に、続いて白状させられたメンバーがアイドルの名前を口にするのを聞いて、自分も嘘をつくなり適当なアイドルの名前を口にするなりすればよかったと思い至り、恥ずかしい思いをした。思い出しては未だに恥ずかしさで背中が丸まる。
「あの子なんて好きそう」
 と、続いた神の言葉に、彼は顔を上げて言葉の示す方を見上げた。
「…………、」
 そこに居たのは、清田の理想を詰め込んだひとりの女の子だった。ゴリラみたいなでかくて分厚い身体をした男の隣に立つ、赤い髪をした女の子。緩やかにウェーブした髪を黒いカチューシャでまとめている。
「ぁ…………、」か細い声に意味はない。
 恐らくスポーツマンの集団だろう男子たちの間に立っても見劣りしない、モデル顔負けの高身長。つり目がちの大きな目の印象を和らげる、あどけなさを残す輪郭のライン。制服の上からでも分かる凹凸のある身体、スカートから伸びる長い足。手すりに手を掛け遠くを見つめる姿はさながらロミオを待つジュリエットのよう。
「……めっちゃタイプっす」
 夢見心地の声で思わず正直に言う。神は隣で、やっぱり、と笑っているようだが、全くもって目に入らない。清田の目はただ一点、ふっくらとした唇を尖らせて試合を目で追っている彼女ひとりに集中していた。
 少女は隣の男の肘を引いては何か話しかけている。男は都度耳を寄せて答えてやっている。随分と親しげな様子だ。
「あ、あんなゴリラにあんな可愛い彼女が……?」
 美女と野獣め、と言う清田に神が言う。
「あれ、湘北のキャプテンだよ。赤木さん。牧さんも一目置いてる選手だ、確か」
「じゃあマネージャーっすか⁈」
 赤木の名前に興味は全くないらしい。試合に集中していたさっきまでとは打って変わった様子に、神は人が恋に落ちる瞬間を目の当たりにした。あまりの変わりようにさすがの彼も驚いたが、それをほとんど表情に出さずに返す。
「かもね。去年はいなかったけど、もしそうなら試合で会えるね」
 新人マネージャーなら同い年だ。彼女に夢中になる清田を、神はあたたかくも珍しいものを見る目で見つめた。
 と、そのとき、ベンチが興奮にわっと沸き立った。ギャラリーからも同じだけの興奮の声が降り注いできて、ふたりはコートの中に意識を戻した。スロースターターの牧にようやくエンジンが掛かったらしい。パスではなく自ら内側に切り込んできた彼のプレイに、海南メンバーのギアも一段上がる。相手のガードを一瞬で抜き去った牧は瞬く間にシュートを決めて、その場にいる全員に帝王の名が飾りではないことを知らしめた。
 湘北の一同も、一瞬の出来事に驚きの後の言葉を失っていた。自前のビデオカメラを持ってきていた石井に、隣にいた潮崎が、今の撮れたか? と指で肩を叩く。
「た、多分……」
 答える声に自信はないが、今ここでビデオを止めて確認する訳にはいかない。試合は途切れることなく続いているのだ。打点の高い相手のシュートを高砂の手がブロックする。そこからの速攻。今まさに試合開始の笛が鳴ったかのような勢いに、これが海南のプレイか、と皆が息を呑む。
「ぬ……?」
 あの流川さえ緊迫感に喉を鳴らしているというのに、初心者である花道だけは呑気な様子で試合を観戦している。
「……いいか、桜木。司令塔であるポイントガードが切り込めるということはだな……、」
 と、隣の赤木が今のプレイがどれだけ恐ろしいかを説明するが、彼女はいまいちよく分かっていない様子だ。
 その間にも牧は、得意の相手のファウルを誘うプレイでフリースローを奪っていく。相手チームも踏ん張ってはいるが、試合の流れは完全に海南――いや、牧の手の中にあった。彼は攻守の流れを読むのではなく、自らの手で試合の流れを作る。
 海南に挑むということは、相手チームも全国を見据えた強豪校なのだろう。彩子曰く東京の私立高校のバスケットボール部で、去年ベスト一六で海南に敗れたチームだという。三年生を中心にした高さのあるチームだ。この時期に練習試合を設定するということは、やはり夏に向けて体制を整える……それも、海南戦に向けて整えようということだろうが、現時点では海南の方が一枚も二枚も上手であった。
 結局前半戦終了の笛が鳴る頃には、積もった点差は二〇点にまで広がっていた。
 汗を腕で拭いながらベンチに向かう牧が赤木の姿に気付いて顔を上げる。彼は薄い唇を不敵な形にして笑い、王者としての貫禄を見せつけた。
 一方花道の目は小田のいる相手のチームを見つめていた。あれだけ酷い振られ方をしたのだからもう小田に未練はなかったが、ただ、バスケ部に入った身として少し思うところがあった。――すると、
「おめー、ああいうのが好きなんか」
 左隣で一言も喋らず試合を観戦していた流川が、突然花道に話しかけた。とはいえ視線は未だ真っ直ぐコートに向けられている。花道はぶっきらぼうに答えた。
「ああいうのって何だよ」
 普段の一〇〇倍大人しいのは何も彩子に注意されているからだけではない。後ろでビデオの具合を確かめていた一年生三人が食い入るように見つめているのにも気付かず、ふたりは視線も交わさず言葉を続ける。
「分かんねーけど、何とか系ってヤツ。どこがいーんだ?」
「……かっこよかったんだよ。シュート決める姿が」
「……で?」
「その後の笑顔がステキだった」
「……そんだけ?」
「うるっせーな、そんだけだよ‼」
「桜木さん、シィーーーッ‼」
 同級生三人に後ろから止められて、花道はようやく周りの注目を浴びていることに気付く。――それだけ。本当にそうだ。それだけで終わってしまった恋だった。でも、
「そーゆーもんじゃねーのかよ、好きになるなんて」
 こう、ビビッとくるっつーかさ、考えるより先に走り出したくなる、みたいな。理屈じゃねーんだよ。と言葉を続ける。軍団にいわせればそれが惚れっぽいということなのだが、言い換えれば、自分の心の感じるところに素直である、ということだ。
「ま、キツネにゃ分かんねーだろうけど」
 言っても無駄だわ、と切り上げた花道に流川は、
「いや……、」
 と考え込むような顔で言葉を返した。意外な反応に、花道は思わず彼の顔を見る。
「分かんの?」
「…………、」
 流川も花道の顔を見つめた。真っ直ぐな眼差しは、言葉なくも雄弁に花道に答えを返す。
「「「…………、」」」
 後ろにいる一年生三人は、心臓の鼓動も慌ただしくふたりの横顔を眺めている。あまりのドラマティックさに石井が無意識にビデオを構えようとするのを佐々岡と桑田の手が音もなく下ろした。どちらもノールック、視線はふたりに固定されたままだ。
 流川が口を開いた。
「――バス、」
「バスケはなしだぞ」
「バスケだろう?」
 重なる声は順番に、流川、花道、赤木のものだ。情緒も何もない三人の言葉に周囲の興奮が一気に冷める。
「おめーら、後半戦が始まるぞ」
 主将の言葉に、一年生と、実はこっそり耳をそばだてていた二年生は、彼の空気の読めなさを初めて知った。後半戦が始まる直前、副主将がこっそりと、
「あいつ、結構鈍いとこあるんだ。可愛いだろう?」
 と一年生に言ったが、どう返すのが正解なのか分からず、三人は上級生の顔を見た。
 彼らは何も答えず、ただ微妙な笑みを返すのみだった。
 後半戦の数分が過ぎても開いた点差は縮まらず、海南の監督である高頭は遂に主力選手を引き下げた。代わりに登場したのが、二年生である神と一年生・清田たちだ。
 緊張の滲む顔でヘッドバンドの位置を調整している清田の様子を見た木暮が、彼は新入生かな、と言った。赤木が隣で重々しく頷く。
「だろうな。去年はベンチにもいなかった。もう勝てると判断したんだろう。あの海南で控えとはいえユニフォームを取った一年だ。お前ら、しっかり見とけよ」
「ハイッ‼」
「……ス」
 呼び掛けられた一年生がそれぞれ答える。花道は特に気にすることなく、頬杖をつきながら階下を見下ろした。すると――、
「……ン?」
 件の一年生が真っ直ぐこちらを見上げているのと目が合った、気がした。何度も直したバンドの位置をしつこく調整し、ユニフォームの裾を入れ直す少年のそわそわと落ち着きのない様子は、今にもどこかに走り出してしまいそうだ。花道は、何かあいつ猿っぽいなぁと考えながら彼の様子を観察する。すると、信長! とチームメイトが彼の名を呼んで、ノブナガ少年は慌てた様子でチームの中に加わっていった。
 猿なのに信長とはこれいかに。どうでもいいひとりごとを胸中で述べ笑う。と、今しがたの少年が飛び跳ねる勢いで振り返り、花道の方を目掛けて右手を挙げた。勝利を約束するような力強いガッツポーズに、彼女は細めていた目を見開く。
 ノブナガ少年は人懐こい動物みたいに開けっ広げな笑顔を見せると、行くぜっ! と威嚇するように吠えた。花道は、誰か友達でも来てるんかな? と辺りを見回した。
 それからの彼の活躍には目を瞠るものがあった。決して大きくない身体に凝縮されたエネルギーが大爆発するような躍動感。広いコートを誰より速く駆け抜け動き、跳んで暴れるその様は、まるで命のかたまりを見ているようだ。
「凄い運動量だな」と潮崎が言う。
「技術は粗削りだけど、あのジャンプ力は……あっ!」
 安田がそう言った瞬間、跳び上がった清田が相手のパスを奪い取った。ボールの弾むようなジャンプ力にギャラリーだけでなく相手チームも驚いている。彼はそのまま速攻を仕掛け、みるみるうちに数多選手たちを抜き去ってゆく。鋭い音を立てて前へ前へと進むボールが、迎え撃つ敵の足の間をくぐって清田の手へと吸い付き戻った。
「上手いっ!」桑田が思わず声を上げ、それから口を押さえる。今のはきっとビデオに入ってしまっただろう。
 清田はコートを駆け抜け跳び上がり、力強いダンクシュートを決めた。満面のピースに、チームメイトたちが次々にげんこつを挟んで彼をからかいながら褒めた。
「――どうだ、流川。海南の一年は」
 赤木が花道の奥にいる流川に言う。彼はほんの一瞬視線を赤木に向け、それからすぐにコートへと戻した。特に返事を期待していなかった赤木はそのまま言葉を続けた。
「海南の期待を背負うっていうのは、生半可なことじゃない。ヤツとはきっと、長い付き合いになるぞ」
 すると、
「……細かいミスが多い。集中力がないからプレイにムラがある、……ッス」
 いつものように省エネの相槌だけかと思ったところに、流川がきちんと考えてから答えを返す。思いがけない返答に、赤木だけでなく花道も驚いて彼の顔をまじまじと見つめた。彩子だけは分かっていたのか、
「あんたってほんと負けず嫌いね」
 と笑いながら言った。そのとき、
「あっ、馬鹿清田ッ‼」
「集中しろっ!」
 正面の敵にボールを奪わせまいと腕を後ろに回した彼の手から、相手のひとりがボールを奪った。
「やべっ‼」
 流川の言葉通り、集中力のムラから隙を突かれた清田は慌ててボールを追いかける。風の速さで一瞬のうちに追いつき、俊敏な猫のように相手の手とボールの間に手を突っ込んで無理矢理奪い返したボールは、白線の向こうに逃げるように飛んでゆく。最後に触れたのは勿論清田だ。
 人波の間をビュンと駆け抜けルーズボールに飛びついた彼が、しっかり掴んだボールを味方に投げる。受け取った武藤のパスは神に渡り、彼はそのまま音も立たない柔らかさで跳んだ。清田が動なら、こちらは静。水の流れるようになめらかな動きだ。
「あ、」
 と口にしたのは誰だったか? 分からないがその声はいやにぽっかりと目立って聞こえた。皆がボールの行方を見上げて黙っていたからだ。細い腕から放たれたボールは、綺麗な放物線を描いてゴールネットの中へと落ちた。スリーポイント。
「……彼が例のシューターか」
 木暮が呟く。
「……厚いな……、」
 赤木が答えた。主砲を下げた控えの選手の中に、これだけ美しいフォームを持つ選手がいるとは。――それから、あの一年生。清田信長。
 神奈川の王者の名は伊達じゃない。そのことを身を以て知ることができただけでも、今日この時間に意味はあっただろう。
 その後も点差は縮まることなく、また、新入部員である小田の出番は当然ないまま、試合は三〇点差で海南が勝利した。
 シュートを覚えた今、あのとき格好いいと思ったシュートを見たらどう感じただろう? という花道の漠然とした疑問は、答えを得ることなくしぼんでいった。

「よう」
 試合終了後、挨拶の為に場を離れた安西を待ってアリーナの出入り口付近に湘北の一団が立っていると、ジャージに着替えた海南の選手たちが彼らの前に現れた。
「うちは見学を開放しているから誰でも練習を見られるが、部活単位で来てるのはお前たちくらいだったから目立ってたぞ」
 と親しげな様子で牧が赤木に話しかける。コートの上での貪欲さはすっかりと鳴りを潜め、今は穏やかな紳士然としている。
「で、どうだった? 試合は」
 彼は赤木に試合のフィードバックを求めた。赤木は頬に少しの緊張を見せながらも微笑み、実感を伴った声で、
「いい勉強になった。気を引き締め直したよ」
 と答えた。
「ならよかった。ようやくお前の時代になって嬉しいよ。お互い新体制作りに苦労しているときだろうが、今年こそ、這い上がってきてくれよ」
 俺はお前と戦ってみたいんだ。と、挑発ではなく心底そう思っている声で牧が言う。先ほどの神の、牧さんも一目置いている、という言葉は確かであったようだ。
 牧の激励をしっかりと受け取って、赤木は力強く答える。
「ああ。今年こそやるぞ。俺たちも練習を重ねてきたし、いい一年も入った」
「ふっ、そうか」
 と、互いに微笑み夏を見据える主将ふたりの間に、無邪気な声が飛び込んでくる。
「それってあたしのこと?」
 赤木の大きな背中の影から、花道がひょっこりと顔を出してふたりの間に口を挟んだ。
「違うわバカモノめ」
 こんな悪戯も最早慣れたもの。こどもが親同士の会話に首を突っ込んでくるようなものだ。赤木は怒るでもなく只々呆れた顔で花道の額を押し戻した。が、その表情は花道の位置からは横顔だけしか見えていない。というか、そもそも彼女は赤木の顔など気にしていない。
 彼女の視線は、目の前の海南の主将に向けられていた。あまりに強い熱視線に、彼の顔に穴が開いてしまいそうだ。
「……何かな?」
 その視線の不躾なまでの真っ直ぐさに、牧が思わず花道に声を掛ける。口調は穏やかで大人びた余裕を感じさせるが、笑顔の下には戸惑いのようなものが滲んでいた。然もありなん。普通に生活していれば、牧と花道は出会わないようなタイプだ。
 赤木が、こいつのことは気にしなくていい、と口を開く。そこに花道が意を決したように口を開くのが重なった。
「む。……練習試合ってOBが参加してもいいの? 卒業生ダヨネ? キミ」
 戸惑いの目でおずおずと、しかし遠慮なく問うた花道に、湘北・海南一同の時間が止まる。彼女は牧を卒業生だと勘違いしていたのだ。確かに牧は落ち着いた――帝王と呼ばれるにふさわしいだけの――貫禄があるのだが……。
「……俺、まだ三年なんだけど」
 それぞれがそれぞれの理由で言葉を失っている為、返事をしたのは牧自身だった。唇は一応笑みの形を作っているが、それはたださっきまでの形を保っていただけに過ぎない。返答に花道が驚きの声を上げる。
「えっ⁉ ……いや、さすがにそれは無理が……」
 とうとう赤木の背中から前に出てきた彼女が牧の顔に顔を寄せる。よく日に焼けた髪と肌。精悍さを感じさせる骨ばった頬。眉間に刻まれた皺と、その下に並ぶ意思の強い瞳。左目の下の小さな泣きぼくろがその容貌に品格を与え、芸術品としての彼を完成させている。と、牧の薄く形のいい唇が何か言葉を発しようと開いた。
「……赤木の方がフケてるぞ」
 どん、と。音がしそうなほど堂々と牧が言い放つ。花道と同じだけのストレートさ。今や音もなく静まり返っていたアリーナの入口は、彼の言葉をこの場にいる全員にしっかりと伝えた。
「た、たしかに……‼」
「確かにじゃないっ‼ ……すまない、牧。うちの馬鹿が失礼した」
 赤木が花道の襟首をつかんで投げて、ようやく重々しい沈黙は解消される。がしかし、そうなると今度はこみ上げてくるものを抑え込むのが大変だ。湘北の輪の端では、桑田が俯いて肩を震わせている。海南にも似たような生徒がひとり、ふたり。
「いやあ、うん。まあ」
 自分の思いがけない負けん気の強さや幼稚さを、どうやら牧自身が驚いているようだった。彼は珍しく言葉を濁して、それから、
「この借りは試合で返すよ、なんて」
 と、冗談とも本気ともつかないことを言った。花道はパッと笑顔をほころばせて、
「おうよ、受けて立つぞ、じい!」
 とガッツポーズで元気よく返した。彼女は、牧が自分を選手と見なし、試合で打ち負かすと宣言したことが嬉しかったのだが、その辺りの事情は勿論牧には伝わっていない。
「じ、じい……」
 彼はたった今付けられた無礼なあだ名にショックを受けているようだった。その隙を見計らい、彩子が花道を後ろに引き下げる。彼女は赤木の代わりに花道のほっぺをちょっとつねった。
 気を取り直した主将ふたりが、握手でこの場を締め直す。副主将も同じく握手を交わし、その場は自然と解散の雰囲気になる。赤木は、今日の相手校にも挨拶をしてこようか、と体育館の奥に視線をやった。すると、
「……あいつは何をしとるんだ」
「え? ってあれ、流川?」
「……と、あれ、小田クンじゃないか?」
 普段から寡黙な為気付かなかったが、どうやら流川は件の〝小田君〟と接触を図っているようだった。制服の集団から少し離れた場所で向き合って何か話している。
「団体行動できんのか、あいつは」
 ため息をひとつついて、赤木は流川の方へ歩き出す。挨拶のついでに捕獲してこよう、ということだろう。
「ぼ、僕たち呼んできます!」
 一年生三人は手を上げ、一目散に彼らの元へと駆け出した。連帯責任というよりは野次馬根性、もとい流川の応援の為である。また、鋭利な見た目によらずどこかとぼけたところのある――最近それが分かってきた――彼が何をしでかすか心配でもあった。
 花道は勿論ついて行かなかった。が、それは小田との再会が気まずかったからではなく、彼女を呼び止める者があったからだ。