Fly girl, in the sky 第八話 - 3/3

「小田クン」
 灰色のブレザーとチェックのスラックスに着替えた小田の背中に向かって、流川は声を掛けた。
「……だ、誰?」
 まずはこちらを振り返った彼の質問に答える。
「……湘北高校バスケ部一年、流川楓」
 自己紹介は流川の無表情も相俟って、まるで決闘における武士の名乗りのようになった。小田は突然現れた長身の美丈夫の迫力に気圧され、僅かに後ずさりした。
「そ、そう。……会ったことあったっけ?」
 今度の問いに、流川は答えなかった。挨拶を終えたのならば、後は目的を果たすのみだ。
「……あいつ、賭けとかしねーから」
 小田は見知らぬ少年の何の脈絡もない言葉に眉を寄せる。
「あいつ?」
「桜木花道。人の気持ちで賭けなんかしねー」
「……」
 流川にしては丁寧に言葉を尽くす。そこまで言えば、彼にも事情は呑み込めたようだった。何か思うところでもあるのか、小田は今しがたとは違う様子で眉をしかめている。その間に流川は彼の旋毛から足元までをじっくりと観察した。自分より頭半分以上小さい少年の身体。その筋肉の付き方や密度、重心の傾きや癖、手の皮の厚さに肉刺の具合。それらすべてを吟味審査し、そして断定する。
「――それから、俺のがバスケうめーから」
 彼の元に向かっていた一年生三人は、彼の声をちょうど真正面で聞いて、驚きのあまりかっ開いた目を合わせた。
(う、うわーーーーーっっっ‼)
 叫びは声にはならなかったが、三人とも全員が同じ悲鳴が身体中を暴れ回っているだろうという確信があった。彼らは興奮に任せて走るスピードを上げ、流川目掛けて声を張り上げた。
「流川くんっ‼ 駄目だよ勝手にいなくなったら!」
「すみません、うちのエースが!」
「試合お疲れさまでしたーー‼」
 流川の腕を強引に掴んでその場を後にする。彼も伝えるだけ伝えて気が済んだのか、特に抵抗もせず大人しく歩調を合わせた。来た道を引き返しながら、三人は頭一つ飛び出た他称・エースを怒鳴りつける。
「何してんの流川君!」
「挨拶」
「て言うか宣戦布告でしょ⁉」
 そう言う桑田もわざと小田に聞かせるようにエースという言葉を立てて流川の宣戦布告をアシストしたのだが、その辺りのことは都合よく脇に置くことにしたらしい。彼の調子に引きずられ、他ふたりの声も少々強く、荒くなる。佐々岡が彼にしては珍しい語気で言う。
「アプローチは本人にしなきゃ意味ないんだよ!」
「周りを牽制しても本人の好意は変わらないよ!」
 同級生からのストレートな正論に流川は足を止め、三人の言葉をしっかりと聞く姿勢をとった。そのまま、視線だけで続きを求める。彼はどうやら、これをアドバイスとして役立てるつもりのようだった。
 何という素直さ、向上心だろう! いや、だがしかし、こういうひたむきな姿勢が、彼をここまでの選手にしたのかもしれない……と、彼らは流川の姿勢にバスケット上達の秘訣を見出す。
 ……とはいえしかし、まずは彼が求めるアドバイスだ。
「……いい、まずはね……、」
 桑田がわざとらしい咳払いでそう言うと、残るふたりも腕を組んだり、鼻を擦ったりしながら流川を囲んだ。

 一方その頃、呼び掛けられた花道が振り返ると、そこには試合中見事なスリーポイントを決めた背の高い選手が立っていた。彼は花道ではなく、自分の身体半分後ろに立つ少年を見つめ、にこにこと笑っている。声を掛けたのはどうやらこの少年らしかった。一年生のキヨタノブナガ少年。
 彼は花道と視線が合ったのを認識すると、緊張の滲む目のまま白い歯を見せ笑った。花道が口を開く。
「む、野猿」
「の、野猿⁈」
「うん。試合中めっちゃ跳んでたから」
「そ、そう……いや、俺、頑張ったんだよ! その……君が見てくれたらいいなって、思って……」
 嬉しくないあだ名をつけられながらも、清田の笑顔は崩れない。それよりも目の前の花道と言葉を交わせることの方が嬉しいようだった。彼は頬をかきながら足元に向けていた視線を最後にちょっと上に向け花道に合わせた。
「ぬ、あたし?」
 上目遣いに恋を見たのは花道以外の全員だろう。傍に立っていた牧は面白がって腕を組み、身体を僅かに清田の方に向けた。観戦の姿勢。彼がそうすると、海南は一気に応援ムードになった。一方、湘北メンバーはといえば、訳も分からずぽかんとしている。と、清田が自らを奮起させる声で言った。
「俺、清田信長‼ 一年‼」
 張り上げた声の語尾全てにエクスクラメーションマークを付けて名乗りを上げた彼は、口から飛び出た言葉の勢いに身を委ねることにしたようだ。
「君も一年だよね? マネージャー? 湘北はいいなあって話してたんだ、君みたいにすっ、ステキな子がマネージャーとしてチームにいるなんて羨ましい、って。そ、それでもし、もしよかったら……なまえ、」
 手をバタバタ、肩をゆさゆさ落ち着きがない清田の姿はとにかく一生懸命だ。しかし、懸命に伝える彼は、自分が決して言ってはならないことを口にしたことに気付かなかった。――名前を教えて欲しいんだ。言葉は最後まで続かなかった。
「ふんっ!」
「えぇっ⁈」
 突然炸裂した花道の頭突きに、清田以外の海南メンバー全員が叫ぶ。ガツンッ‼ と、およそ人体から発せられるにはまずい音が少年の額で響き、彼はそのまま地に倒れ伏した。水を打ったような静けさの中に、シュー……という、これもまたおよそ人体から発せられてはいけない音だけが響く。清田の額から煙が上っている音だ。
「……マネージャーじゃねえよ」
 と、地を這うほどに低い声。花道の声だ。彼女はたった今地面に沈めた少年の顔の傍に膝をつく。本当はしゃがみこもうとしたのだが、自分が穿いているものを思い出して膝を揃えた。その仕草が妙にしとやかで、たった今の頭突きとの落差に一同は面食らう。
「……え?」清田が息だけでか細く返す。花道は答えた。
「選手だよ」
「……は?」
 と、答えたはいいものの、彼は今しがたの言葉の意味と目の前に現れた白い膝と、どちらに意識を向けたらいいのか困っているようだった。心は言葉に向いているのに、目はどうしても眩しいものに惹かれてしまう。その無意識を花道の手がぎゅっと掴む。彼女は清田の顎を下から掬うようにして掴み、無理矢理上に向けさせた。集中しろよ、とその顔に顔を近付ける。清田の鼻先をシャンプーの甘い香りがふわりと撫でて、彼の胸はそんな場合じゃないのにドキドキと跳ねた。……俺、汗臭くないかな⁉ 心の声が顔に出る。
「おい野猿。あたしの顔と名前、よく憶えときな。桜木花道。おめーらを倒して全国制覇する女の名前だ」
「せ、選手……?」
 随分遅れてのオウム返しだが、花道はそのことにも腹を立てたようで、顎を掴む手の力が強くなる。清田は相変わらず花道に見惚れているが、そろそろ誰か止めなければ大変なことになるだろう。では誰が……? と、湘北の二年三年がこっそりと視線を交わす。赤木も流川もいない今、フィジカルで花道に歯が立ちそうな者はここにはいない。と、そのとき、暴力に耽る花道の頭の上に大きな影が差し、更なる暴力が落雷のように落っこちた。相手校への挨拶を終えた赤木が戻ってきていた。
「ぎゃんっ‼」
「何をやっとるか‼」
「ゴッ、ゴリ……⁉」
 殴られた頭をさすりながら、花道は抗議の声を上げる。納得がいかないことにきちんと声を上げることはいかなるときでも大切なことだ。
「だって今、こいつから喧嘩売ってきたんだぞ! ヒコイチもそうだが、女の子を見たらすぐマネージャーって決めつけるの、はっきり言ってシツレーだぞ‼」
 言葉だけ聞けば正論だが、既に暴力に訴えている彼女の意見は容赦ない赤木の怒号で跳ね除けられる。
「失礼なのはお前の態度だ‼ ったく、お前はすぐ癇癪を起こすからに! ――おいっ、そこの一年もはやく戻れ‼ これ以上迷惑をかけないうちに帰るぞ‼」
 へたり込んだ花道の腕を引き上げ立たせ、部員の列に並ばせる。さっきまで緩やかなアーチ状だった彼らは、知らないうちに各自気をつけの姿勢で列になって並んでいた。対面する海南も自然と背筋が伸びる。地に伏した清田の手を武藤が握って立たせた。
「――すみません、遅くなりました」
 そこへ折よく挨拶を終えた安西が戻ってきて、事態はようやく収束した。一年生四人も、先ほどまでの波乱も知らず、明るくすっきりとした顔で列に加わった。
 練習試合の見学に訪れた湘北一行は、まるで自分たちが試合をしたかのような疲れ切った様子で深々と頭を下げ、海南の体育館を後にした。
 その、主将の大きな後ろ姿に牧は、選手としては分からないが、主将としてはヤツの方が立派かもしれん、と思う。――自分はいい主将になれるだろうか?
 背後にちらりと視線を向ける。
 先程の暴力の衝撃が忘れがたいのか、どこかぼんやりとしている高砂。
「名前教えてもらえてよかったな。花ちゃんだって」と、マイペースな神。
「あ、ハイ。そうなんですけど……え、選手?」まだ混乱している期待の一年、清田。
「――どうしたんだ、牧。難しい顔して」
「……宮」
 何かと牧を気にかけてくれる同学年の宮益が親しげに彼の背を叩き、牧はその気遣いにそっと息をついた。
 夏の大会までに、自分たちはどんなチームになるだろう。
 今日の試合に課題を探しながら、牧はコートを振り返る。
「おーい、お前ら集まれー」
 高頭監督が扇子を振って自分たちを呼んだ。