Fly girl, in the sky 第九話 - 2/2

「――あら、もう買い物終わったの?」
 自分の買い物を終えて合流すると、ふたりは何だか晴れやかな顔をしていた。たくさんあったバッシュの中からお気に入りの一足が見つかったらしい。晴子ちゃんが元気よく頷く。
「はい! 店長がとってもいい人だったんですよ。ね、桜木さん!」
「ハイ‼ 中古だからマケてもらって」
「あら。いいお店ねえ」
 右手にぶら下げた箱入りの袋がガサリと揺れて音を立てる。エアジョーダンか。中古も扱ってるんだ、この店。
「ええ。また来ようね、桜木さん」
「ハイッ!」
 今日一番の目的を終えて店の階段を下りる。空は雲ひとつないような晴天で、道行く人たちの顔も明るく楽しげだ。時刻は一時半を回った頃で、どの店先も観光客や地元のお客さんたちで賑わっている。
「どうする? どこかでお茶でもする?」
「そうですね。この時間ならカフェも空いてそう」
「晴子ちゃん、どこかいい店知ってる?」
「うーん、たしか、駅の向こうに新しいお店ができてたような……、スコーンと紅茶のお店」
「いいじゃない。行ってみましょうよ」
「スコーンって、お嬢様が食べてるヤツだ……!」
「何、そのイメージ」
 大通りを三人並んで歩き出す。ここから駅の向こう口なら歩いて一〇分くらい。ウインドウショッピングをしながらだったらその倍くらいかしら?
 目に留まった店先を冷やかしながら歩いてゆくと、道行く人たちの視線をいくつも感じた。そうよね。今日のあたしたちったら最高だもの。ついつい視線が引き寄せられるのも仕方ないわ。仕方ないけど、別に気持ちのいいものでもないから、そういう視線はまるっと無視。あたしは両隣を歩く後輩ふたりの腕の間に自分の腕を通した。
「わ、何スか、アヤコさん」
「べっつにぃ。ねえ、あんたってやっぱ鈍感ねえ」
「え?」
「でも、鈍感なくらいがちょうどいいか。気付いたらあんた、怖気づいちゃいそうだし」
「えっ、何スか、」
「あんたが今日、おいそれとは話しかけられないような高嶺の花でよかった、って話よ」
「はあ?」
 だとしたらそれはきっとおふたりのお陰っす、と分かっていないなりに謙遜するこの子の返事を笑っていると、ようやく駅前の広場に辿り着いた。お店は駅の向こうだからこのまま駅の中を通って行くのがいいだろう。と、あたしたちはそのまま入口方面に向かう。すると、待ち合わせの人たちでごった返す広場の中に、ふと先日見たばかりの人の姿を見つけた。
 人ごみの中でも目立つ長身、よく日に焼けた褐色の肌。今日は前髪を下ろし、ラフなシャツ姿をしているからか、先日会ったときよりも年相応に見える彼は……、
「――牧紳一、」
「む? じい?」
「牧さんって、あの海南の?」
 ふたりがあたしの視線の先を追う。そこにいるのは確かに海南大附属高校バスケットボール部主将の牧紳一だった。神奈川ナンバーワン、怪物と呼ばれ畏怖と尊敬を集める彼は今、どうやら女性ふたり組に声を掛けられているらしい。遠目からだけど、どこか困っているようにも見える。もしかしてあれって……、
「ナンパ、ですよね……?」
「ええ、しかも彼がされてる方」
「ぎゃ、逆ナンってヤツっすか」
 今の女の子たちって積極的なんスね、と驚きながらも感心している桜木花道の姿をあたしは見る。もしかして今、あたしたちはとんでもなく劇的な場面に遭遇しているのではないか? と考えながら。
「……桜木花道、」
「ぬ?」
「あんた、ちょっと牧紳一に恩売ってきなさい」
「え?」
 どゆこと? と首を傾げる彼女は今時珍しいほどのうぶだから、本当はこの子じゃなくて他の誰か……、あたしや晴子ちゃんが代わった方がいいんだろうけど、やっぱりこの場で一番迫力があるのは桜木花道だ。それに、今日のあたしの格好はグリーンベースのジャケットとハーフパンツのセットアップ、晴子ちゃんはざっくりとした麻地のワンピースで、どちらもデート向けの格好とは言い難い。
「彼に向かって『紳一くん、お待たせ』って呼び掛けてあげるだけでいいから!」
「し、しん……?」
「そう。これはチャンスよ。行ってきなさい、桜木花道。後でスコーンおごってあげるから!」
「ぅ、う、うっす……」
 よく分かってないけれど、あたしのまくし立てる勢いに気圧されて、桜木花道はひとり牧紳一の方へ歩いていった。あたしと晴子ちゃんのふたりはその後ろ姿を陰から見つめる。大きな背中なのにどこか頼りなく見えてしまうから不思議だ。あの子が女性ふたり組の背後から牧紳一の正面に立つ。あたしたちはそんなことする必要もないのに息をひそめ、雑踏の中の声のひとつに耳を澄ませた。
「……し、しんいちクン、お待たせ」
「さ、く……、」
 眉を下げた困り顔を女の子たちの方へ向けていた牧紳一が、声を聞いて顔を上げる。彼は正面に立つ女の子を、先日の練習試合で初対面した桜木花道と認識して僅かに目を見開いて驚いた顔をした。コートの上ではなかなかお目に掛かれない表情だが、それはほんのちょっとの間だけ。神奈川ナンバーワンのポイントガードの評判は伊達じゃない。彼は瞬時にこの状況を理解して、桜木花道の――正確にはあたしたちの――パスを受け取り次のパスを寸分の狂いなく正しい場所に出した。
「いや、俺も今来たところだよ。行こうか、桜。――ってことで、」
 牧紳一が女の子たちに見せるように桜木花道に腕を差し出す。手じゃなくて腕、というのが何ともいえず彼らしい。が、とにかく鈍ちんのあの子は頭の上にはてなを浮かべて差し出された肘を見つめるのみだ。牧紳一は、仕方ない、とさっきとは違う心からの苦笑をこぼして、桜木花道の手を取って歩き出した。
「⁉」
 あたしたちは思わず息を呑んだけど、それは桜木花道も女の子たちも同様だった。牧紳一が桜木花道の手を引いて歩き出す。恐らく逆ナンの最中に相手の男を奪われた女の子たちは、去ってゆくカップルの後ろ姿を見送ってからようやく我に返り、それから、何今のヒトーーーっ‼ と大興奮で騒ぎ出した。モデルかなぁ⁉ と異性よりむしろ同性の桜木花道の姿にはしゃぐ彼女たちの声は、もちろん当の本人には届いていない。牧紳一は、ギクシャクとまるで初めての試合に臨むみたいな様子の桜木花道を丁寧にエスコートして大通りへと歩いていった。あたしたちふたりは小走りで彼らの後を追った。
「君たちのおかげで助かった! どう断ろうかと困ってたんだ」
 広場を抜けて大通りの角を曲がったところで目の前に現れたあたしたちを見て、牧さんは桜木さんの手をパッと離してそう言った。彼は桜木さんと並んで歩きながら、きっとこれは彼女の独断ではないだろう、と考えていたみたい。さすが、海南の一番は状況の把握が上手い。
 あたしは今日が初対面だけど、牧さんとふたりは先日の練習試合で既に顔見知りになっていたらしい。特に桜木さんは、そのときに強い印象を残していたようだ。
「あの頭突きには俺もびっくりしたけど、清田はまだたまにぽーっとしてるよ。相当衝撃だったみたいだ」
「フン。ざまみろ」
「え、頭突き?」
 穏やかでない単語の出現に尋ねてみると、桜木さんはどうやら清田さんという人に頭突きをしてしまったらしい。
「確かに決めつけはよくないけど、すぐ暴力に訴えるのはダメよう。清田さんだって、桜木さんを傷付けようとした訳じゃないなら、伝えればきっと分かってくれる筈だもの」
「う……ス、スミマセン」
 余計なお世話ともいうべきあたしの言葉を、桜木さんはまっすぐ素直に受け止めてしゅんとする。あまりのしおれ具合にこっちまで申し訳ない気持ちになるところを、彩子さんは、晴子ちゃんに謝ってどうすんのよ、と大らかに笑い飛ばした。牧さんはそんなあたしたちの様子を見て、君たち、姉妹みたいだな、と言った。
「姉妹といえば、この子、うちの赤木キャプテンの妹なんですよ」
 彩子さんが隣に立ってあたしを牧さんに紹介してくれる。あたしは軽く頭を下げた。
「えっ、妹?」
 牧さんが声を上げる。珍しい反応じゃないのであたしも特に気にせず笑う。似てない兄妹かもしれないけど、目元の辺りはよく似てるってあたしは思ってるんだけどなあ。
「へえ、赤木、妹がいるのか。だからあんなに面倒見がいいのかな」
「違うぞ、じい。ゴリは暴力でもって部を支配しているドクサイシャだぞ」
「はは。そういえば、こないだ殴られてたもんな」
「ゴリこそハルコさんのお言葉に耳を傾けるべきなんだ。あたしだって話せばちゃんと分かるんだから」
「さーあ、それはどうかしらね」
 彩子さんの言葉に牧さんは穏やかに笑って、それから腕時計を確認すると、
「立ち話も何だし、もし君たちさえよかったらお礼にお茶でもご馳走させてもらえないかな」
 ――という牧紳一の言葉に甘えることにしたあたしたちを連れ彼が向かったのは、駅近くのビルの二階にあるカフェだった。チェーンけど、有名なアイスクリームのブランドが展開しているカフェで、高校生のお小遣いでは真っ先に候補から外される部類の店だ。
 期待を胸に二階に上がり、店員の案内を受ける。店内はブランドカラーであるバーガンディーで統一された、すっきりとしたモダンな空間。カフェタイムにはまだはやい時間のおかげか客の姿はまばらで、ゆったりとした雰囲気は、窓側の円卓から見える休日の街の喧騒をすっと遠くさせた。
 この人、アイスとか食べるのかしら? と考えながらメニューを見て、エプロン姿の店員に注文を告げる。あたしと晴子ちゃんは牧紳一と自分の身体に多少の気を遣って控えめなサンデーを、桜木花道は特に何も考えず、新メニューだという苺のパフェを注文した。苺のアイスはあたしの注文したクッキーアンドクリーム同様、今年新発売のフレーバーだ。皆の注文を聞いてから、牧紳一は最後にコーヒーを頼んで店員にメニューを返した。アイスじゃないんだ、とあたしはちょっとがっかりした。
「バスケ部の連中と待ち合わせしてたんだが、どうやら電車が止まってるみたいでな。どこかに入って待ってようかと思ったところで声を掛けられて困ってたんだ」
 注文を終えひと息ついた後の話の流れで、彼は先程のいきさつを話してくれた。常勝を掲げる王者・海南のキャプテンも、部活の休みに友達と買い物に行くような普通の日常があるのか、と改めてあたしは思った。
「じいでも困ることあるんだな」
「ん? まあ人並みに。妙なあだ名を付けられたときとかも困るぞ」
「? そりゃ確かに反応に困るよな」
「牧さん、そういう遠回しな言い方、この子には伝わらないですよ」
「そうみたいだな」
「ぬ」
「あはは」
 頬を赤くした彼女を置いてあたしは続ける。
「でも意外。女の子から声掛けられて困るなんて」
 コートの上とは違う穏やかな様子に、あたしは多少切り込んでもいいだろうと判断した。今こうして話している感じでも、牧紳一は女の子を相手に話すことに対して少しの照れも気負いもない。そういう、思春期の刺々しさやナイーブさからは最も縁遠い人のように見える。
「そんなに慣れてそうに見えるか?」
「慣れてるというか、モテそうには見えますけど」
 円卓の隣で晴子ちゃんも頷いている。牧紳一は首を僅かに傾けて、
「そんなことないよ。あの子たちも、飯でもご馳走してくれるとでも思ったんだろうよ」
 と言った。確かに、シャツとカーゴパンツという彼の格好は一見するとシンプルだけど、ちょっと注意深く見れば決して安いものではないとすぐに分かる。形のごついブーツやモスグリーンのズボンには控えめなブランドロゴが付いているし、無地のシャツは仕立てが丁寧で、恐らくあれも海外ブランドのもの。唯一時計だけは国内のそう高くないブランドのモデルだけど、機能性と頑丈さからアメリカの軍人や消防隊員たちがこぞって求めているというから、そういう点もポイントなのかもしれない。とはいえ、彼女たちがこの男の身なりだけに興味を持って声を掛けたとも思えない。彼女たちはむしろ、こういう無骨な格好をしてもどこか品よく見える牧紳一の優雅さに目をつけたんじゃないかしら? いくら昨今女性からのナンパが珍しくなくなったとはいっても、安全を確信できない男に女の子たちは声を掛けない。注文の品をサーブしに来た女性店員に笑顔を返す彼を正面で眺めながらあたしは、やっぱりこの人、あたしたちが前に出なくても自分で上手に断れたんじゃないかしら? と思った。
「何だか、代わりにあたしたちがご馳走になっちゃって申し訳ないですね」
 晴子ちゃんも、目の前に置かれた可愛らしいサンデーを前に目を輝かせながらも恐縮している。その一方で、牧紳一のモテ事情になど一切興味のない桜木花道は、背の高いグラスに飾り付けられたパフェに夢中の様子だ。いただきます、と震える手で恐るおそるロングスプーンを握り、芸術品の頂に輝く苺とクリームを掬い取って口に含む。その直後、パッと明るくなった表情から言葉はなくても感激が伝わって、あたしたちが呆れたり笑ったりする前に牧紳一が思わずという音で控えめに噴き出した。
「ふっ……、悪い。……君たちも溶ける前に食ってくれ」
 あたしたちもスプーンを手に取った。
「じい‼ これめっちゃ旨いゾ! じいはアイス食べなくていいのか⁉」
 グラスの中のアイスやフルーツ等のトッピングをひとくちずつしっかり堪能してから、桜木花道は隣に座る牧紳一に聞く。
「てゆーかアイス屋だろ? ここ」
「俺には量が多いんだよなぁ」
「そうなんか? でも食べた方がいいぞ、絶対!」
 ホラ! と言ったあの子が、二色のアイスとクリームをロングスプーンでたっぷりと掬い、牧紳一の口の前に差し出した。それほど感動したのだろう。完全なる善意、こどもの無垢さで差し出された厚意だが、どれだけ大変なことをしているのか、あの子は明らかに理解していない。牧紳一はスプーンに乗るピンクと赤をじっと見つめ、あたしたちはそんな彼を控えめに見つめた。……やっぱりこの人、さっき困ってたなんて嘘だわ。今の方がよっぽど困ってるもの。
「…………、」
 すると、誰もしゃべらないテーブルの中心で、音楽とは違う電子音が響いた。電話の音だ。突然の高音に驚いたあたしたちに、牧紳一は失礼、と言い添えてからポケットを探る。取り出したのは手のひらからはみ出す長さの黒い物体――彼は携帯電話を持っているのだ!
「すまん、電話だ」
 言葉とは裏腹にこれ幸いと、ほっと息をついて牧紳一が立ち上がる。そこに、スプーンを差し出したままの桜木花道が彼を呼んだ。
「じい」
「な、んっ……⁉」
 桜木花道の左手が牧紳一の腕を掴んで引き寄せる。彼女の握ったスプーンは、返事のために開いた彼の口の中に消えた。消えたというか、突っ込まれた。桜木花道はにこにこ顔のまま数秒待つと、今度は丁寧にスプーンを引き抜いた。ピンクのアイスが消えた代わりに、牧紳一の頬がちょっと赤くなったように見えたがどうだろう? 彼はばつの悪い顔で唇の端を舐めてから、
「……喉に刺さると危ないから止めなさい」
 と抑え込んだ声で言った。
「はーい」
 桜木花道は間延びした声で返事をし、電話のために席を離れた牧紳一の後ろ姿を笑顔のまま見送った。悪戯が成功した小学生でも、こんなに晴れやかな顔はしないだろう。
「……携帯電話持ってるなんて、やっぱりお坊ちゃんねぇ」
 牧さんが店のドアをくぐったのを見送ってから、彩子さんが緊張のほどけた声で言った。それから続ける。
「それにしたってあんた……大胆なことするわね」
 今度は呆れたような声だ。あたしもまさか食べさせるとは思いもしなかったからびっくりして隣でこくこく頷いたけど、桜木さんはよく分かっていないのか、
「? アヤコさんもいる?」
 とスプーンを差し出した。気前がいいから小さいスプーンの上ではアイスと苺が零れ落ちそうになっている。
「いや、大丈夫よ」
 彩子さんは右手のひらをびしりと立てて拒絶のポーズをとる。そうね、それくらいしっかりとした意思表示は必要かもしれない。あたしも、桜木さんが勧めてくれるより先に彩子さんを習って右手を立てた。
「……今日のあんたがジュリア・ロバーツなら、牧紳一がリチャード・ギアって感じね」
 彩子さんは立てた手で今度は頬杖をついて、桜木さんの横顔を眺めた。リチャード・ギア! たしかに、今日の桜木さんの格好と落ち着いた牧さんの雰囲気は、映画のふたりの配役にぴったりだわ。
「ぬ?」
「例の映画。ジュリア・ロバーツの相手役に似てるって話。映画の彼は大富豪って設定だけど、携帯電話持ってるなんて牧紳一も相当なお金持ちよ。感じもどことなく似てるし」
「ほっほう、相手役。確かに神奈川の王者対このロバーツ桜木なら、互いに相手にとって不足なしですね」
「あんた何か勘違いしてない?」
「桜木さん、格闘技じゃないんだから……、」
「――格闘技?」
 電話は思ったよりはやく終わったようで、牧さんはすぐに戻ってきた。さっきまでのちょっと照れたような、困ったような顔はもうすっかり元通りだ。
「いいえ、何でも。牧さんがリチャード・ギアに似た紳士だって話です」
「それがどうして格闘技になるんだ? ……って、俺、やっぱそんなに老けてるかな……?」
 どうやら牧さんは大人びた自分の顔のことを気にしているみたい。
「違いますよう。今日の桜木さん、ジュリア・ロバーツみたいよね、って話してたんです。映画の衣装に似てるから」
「それで俺がリチャード・ギア?」
 あたしの言葉に牧さんは首を傾げる。要点を得ない説明だったから、かえって困らせてしまったかもしれない。
「お友達からですか? 電話」
 そこに彩子さんが話に加わり助け舟を出してくれる。牧さんは頷いて答えた。
「ああ。駅に着いたって公衆電話から。俺ももう行くよ。会計は終わってるから、君たちはどうぞごゆっくり」
「ごっそーさま!」
「ごちそうさまです」
 あたしたち三人の声が重なる。
「どういたしまして。こっちこそありがとう」
 牧さんはやっぱり年よりもずっと大人びた紳士の顔で言い、それから、
「買い物楽しんで。――エアジョーダン?」
 と言った。最後の言葉は桜木さんに向けてだろう。牧さんは桜木さんの椅子の背もたれに掛けたシューズの袋を見つめた後、彼女の目に目を合わせて見下ろした。その顔はたった今とはちょっと違う。何か見定めるような、見定めながらからかうような挑発的な表情だ。桜木さんは斜め上にある牧さんの顔をじっと見て、
「分かんねーけど、イカすやつ」
 と答えた。牧さんは挑発的な顔のまま微笑んだ。
「そうか。夏にまた会ったら見せてくれ」
 夏。それはきっと季節ではなく、桜木さんたちが挑む夏の大会のことだろう。彼女にとって初めての夏、牧さん、そしてお兄ちゃんにとっては最後の夏――。言葉の真意を正しく汲み取った桜木さんは、パフェを見たときと同じくらい明るい表情で、
「おうよ!」
 と拳を握って答えた。その様子に、牧さんは目尻を優しい形に緩める。
「じゃあな、『プリティ・ウーマン』」
 そう言って、彼はあたしたちに背中を向けて店を出て行った。……牧さん、映画のこと知ってたのね。
「プリティ・ウーマン?」
 一方、映画のことなど何にも知らない桜木花道は首を傾げながらも一度置いたスプーンを再び手に取る。そうよね、日本でもヒットした作品だから牧紳一が映画のことを知っていても何の不思議もない。むしろ、こと恋愛ごとに関して夢見がちなところのある桜木花道が、この有名なロマンス映画を知らないことの方が意外だった。
「あたし今、かわいいって褒められたの?」
 だとしたら何でエーゴ? とスプーンを咥えて悩む彼女に、晴子ちゃんは映画のタイトルよ、と親切に教えてあげる。頼むから観てみたいとか言わないでよ、とあたしはアイスクリームにスプーンを突き立てながら思った。映画を観て変にあの男を意識されても困る。……何故困るのかって? 無自覚なのに嫉妬深くてこどもっぽい後輩がいるからよ。桜木花道をバスケット部に、ひいては自分の人生に巻き込んだ、表情に乏しい割に情熱的なバスケ馬鹿。何だかんだいってもあたしは彼を可愛がっているのだ。
 ……とはいえ、これは既に面倒なことになってるかも。
 隣に座るもうひとりの〝桜木花道を見つけた〟後輩をそっと見る。彼女は件の後輩に想いを寄せている、らしい。あたしの目から見たらそれはバスケットボールに対する愛情とそう変わらないのだけれど、少なくとも本人にとっては恋なのだから、イコールこの子たちは見事な三角関係を描いているってことになる。幸いなのは本人たちに自覚がないこと。そして、この子たちが他人を大切にできるとびきり優しい子たちだってこと。だったらきっと、事態は悪い方へは進むまい。もし危なくなったとしても、求められたときにあたしや周りの誰かがサポートしてあげればいい。何だか最近他の一年もあの子のこと応援してるみたいだし。
「人生は映画よりドラマティック……ってねえ」
 あたしが思わずしみじみと呟いてしまったものだから、両隣に座る可愛い後輩たちは揃って首を傾げたのだった。……って、ちょっと待って。
「桜木さん、あたしのアイスひと口食べる?」
「えっ? い、いいんですか?」
「もちろん! ハニー味大丈夫?」
「大好きです!」
「よかったあ。はい、あーん」
「あ、あーん」
 そういう三角形なの? っていうか、その矢印の向き方だと三角形は成立するのかしら? ……、まあ形はともかく、仮に晴子ちゃんの矢印がこっちに向くなら、こっちの方が成立する可能性は高いんじゃない? ……だとしたら相手はかなり手強いわ。頑張りなさいよ、流川!