遅れてきた男
「あーあ、退屈だ退屈だ」
花道と恋愛漫画について語り合うくらい、こと恋愛話が好きな大楠は、退屈を感じる度に何か面白い話はないか、と人の色恋沙汰を聞きたがる。その先触れとなるのが今まさに放たれた、間延びした声の〝退屈だ〟であるので、水戸は彼の退屈しのぎの餌食となる前に別の話題を探すべく頭を巡らせた。普段行動を共にしている軍団のメンバーは不在であるから、笑って頷いているだけでやり過ごせる、という訳にはいかない。舗道を歩く道すがら近くに店なり、或いは犬猫の一匹でもいれば、と思うものの、脇の片側は道路と街路樹、もう片側は公園のフェンスとあってはそれも難しかった。大楠は水戸の内心の逡巡を知りもせず、相変わらずのぼんやりした声で再び、退屈だ、と言った。尖らせた薄い唇がまるで拗ねているように見える。
「最近は花道もあんまり男にフラれないしつまんねーよな」
不意に飛び出た親友の名に、水戸は、おや? と思う。拗ねているように見えた彼は、もしかしたら本当に拗ねているのかもしれない。
「小田の件から立ち直ったのはいいけどよぉ。最近はもうバスケバスケで、片思い女王の名が廃るってんだよ」
「あいつは今バスケットにハマりつつあるからな」
「そーなんだよ。男の次はバスケ、って、そんなことあるかよ」
「よーやく賭けるもんが見つかったってトコさ。お前にとっちゃつまんねーかもしんねえけどよ」
応援してやろうぜ、と宥める水戸の横顔をちょっと見て、大楠は尖らせていた唇をすっと引っ込める。
「そりゃもちろん応援はするけどよお。――おう、洋平、お前あいつのことはいいのか?」
「え、俺?」
あいつって? と聞くのは藪蛇だろうと、水戸はそこで言葉を留める。大楠は左の肩を水戸の方にちょっと突き出し、とぼけんなよ、とあえて茶化すような口ぶりで言った。
「流川だよ流川。花道からはさっぱりだけど、あいつの方は花道に矢印出してるじゃねーか」
「あー……」
やっぱりこっちにお鉢が回ってきたか。水戸は頷くでもないただの音で曖昧に返す。
「そーゆー気のない素振りして、横からかっさらわれて泣いても知らねーぞ」
「あのなあ、俺と花道は親友。何度も言わせんな」
「はいはい。そーでしたそーでした。――お、」
水戸の言葉をすっと躱し数歩前を歩く大楠が何かを見付け声を上げる。助かった、と、彼の背中越しに水戸も視線で後を追う。
「何だ、あいつら?」
公園のフェンスの傍に、野間と高宮のふたりがしゃがみこみわだかまっていた。フェンス向こうの植栽の陰に隠れ公園の中を覗くふたりは、真剣な面持ちで何かを見守っている。水戸と大楠は顔を見合わせると、そっと彼らの背後に忍び寄り、しゃがみこんだ尻を蹴り上げた。
「へーい」
「何やってんだよ」
尻を蹴り上げられてふたりは転がる。水戸と大楠は彼らのいた位置にしゃがみこんで、視線の先を追った。そこに居たのはひとりの男だった。
男といっても、年の頃は水戸たちとそう変わらない、少年と青年の間にいるような年頃だ。木陰に学生鞄と制服が置かれているからきっと高校生だろう。湘北の生徒かもしれない。学生である彼は学ランとシャツを脱いだ黄色いタンクトップ一枚の姿でひとりバスケットボールに興じていた。当然ひとりではゲームなどできないから、彼はもっぱらドリブルの練習に専念している。額から腕から汗でじっとりと濡れていることから、もう随分長い時間彼がそうしていることが知れた。時の経過を感じさせない腰の高さで打つ彼のボールが、足元で鋭い音を立てる。その音の陰に隠れるように声を潜めて野間が言った。
「さっきから見てんだけどよ、あいつすげーうめーんだよ、ドリブル。シュートはあんま入んねーんだけど」
「そうそう。俺らも最近目が肥えてきたけどよ。ありゃドリブルだけならゴリよりうめーんじゃねえかな」
起き上がった高宮が相槌を打って、大楠の顎の下に入り込み胡坐をかいた。彼はサングラスの鋭利な角を光らせて、
「上手さの種類は違うけどよ、センドーにだって引けを取らねーと思うぜ、俺は」
と続けた。仙道といえば、目下花道が流川の次にライバル意識を燃やしている男だ。本物の天才。軍団が見た中でもトップレベルでバスケットが上手い男である。
「そりゃ言い過ぎだろ」
大楠が言う。水戸も笑いながら頷いた。
が、四人が談笑している間でも、男の操るボールは彼の足の間をくぐり、背中を掠め、彼の身体に寄り添いながら喜ぶように跳ねている。細身の身体の周縁、ごく小さい円の中を曲芸のようにボールが動くさまは、確かに彼らの短いバスケット観戦歴の中で初めて見るものだった。
「しかしよう、」大楠が薄い唇を尖らせて言う。「おめーらいきなりスポーツに目覚めたってワケじゃねーだろ?」
バスケットは面白いが、友人が関わらなければ他のスポーツに対する興味と変わらない。彼らがバスケットを見るのは、つまりバスケットをする花道を見ることと同義なのだ。大楠の言葉に野間と高宮のふたりは、まあ待てよ、と首を横に振った。
「あすこ、見てみろよ。ベンチにさ、女の子いるだろ?」
「あの子、ずっとそこで見てたんだけどよ、さっきちょっといなくなって、戻ってきたと思ったらジュース買ってきてんだよ。ありゃあいつに渡す気だぜ」
「あーあー、……」
そういうことね、と水戸が言う。が、隣にしゃがむ大楠は彼らの話に、待ってました! と言わんばかりに食いついた。
「青春じゃねーか! しかも結構可愛い! おい、あの制服、隣の女子高のだぜ‼」
「だよなあ、小さくて清楚な感じでよ」
「でもあの男、ちょっとやんちゃっぽくねえか? 見ろ、ピアスなんかしてるぞ」
俄然ひそひそ声で盛り上がり始めた軍団に水を差す声で水戸は言う。が、彼らは一向に構わぬ様子でふたりの未だ交わらない恋路を応援し始めた。どうやら恋愛話が好きなのは大楠だけではないらしい。このところ花道のそれが不発なせいもあるかもしれない。――と、バスケ男の低く落とした尻にぶつかったボールが、正に三人の望む方向へと転がってゆく。
「あ、」
男が振り返る。漏れた声は僅かに高く、思いがけないほど澄んでいた。やんちゃっぽいと水戸が称した姿に見合わぬ爽やかな声。
テン、テン、と音を立ててボールが転がる。その行方に男が視線を向ける。そこに少女がいる筈だった。
がしかし、彼の視界に入ったのはプリーツスカートの足元ではなく彼と同じスラックスの黒だった。革靴が砂利を踏んでざらついた音を立てる。その音が二つ、三つ、四つ。
「退院したなら俺に教えてくれてもいいだろう? ああ? 宮城よ?」
バスケ男――宮城と呼ばれた彼だ――と少女の間に立ち塞がったのは四人の男たちだった。誰も皆背が高く、分厚い身体に揃いの学ランをきっちりと着込んでいる。
「堀田…………」
宮城が例の澄んだ声で中心に立つ男の名を呼ぶ。堀田と呼ばれた男は特徴的な唇をへの字に捻じ曲げ鼻息をついた。軍団は視線を見合わせる。見覚えのある不良たちは彼らの通う湘北高校の上級生グループだ。関わったことはないが意識されていると感じたことは何度かある。
「なあ」大楠が口を開く。
「おうよ」野間が頷き、高宮を見た。
「四対一とは、やっぱ卑怯モンだったか」膝を立てた彼の肩が隣にしゃがむ水戸の肩にぶつかる。
「そりゃ見過ごせねーよなあ」
不良たち四人は立ち上がり、公園の入り口に向かった。
「やめてくださいよ……退院したばっかりなんだから」
別の不良たち四人組に囲まれた宮城は怖気づくような素振りもなく落ち着いた様子で彼らに言い返す。ポケットに手を突っ込んで立つ様は堂々としていて、見る者によっては不遜にさえ感じられることだろう。
彼は見上げる為に上げた顎をちょっと横に振って、堀田たちの背後にいる少女に合図を出した。宮城と少女の視線が初めてぶつかる。受け取った少女はそっとその場を離れ、安全と思える場所まで距離を取ると、僅かに頭を下げて去っていった。軍団はすれ違い様、何度も振り返る少女を目で追った。
「学校サボってバスケットしといてそりゃねえだろ」
「安静にしてなきゃいかんよなあ」
不良たちが返す。宮城はしばらく入院していたらしい。だとしたらそれはこの不良たちのせいなのだろう。彼らにどんな因縁があるのか。分からないが軍団は背後から不良たちに近付く。宮城が彼らに気付きちょっと目を見開いた。その視線の流れを察知した男たちが後ろを振り返る。
「何してんスか、堀田先輩」
「四人でひとりを取り囲んで、どーゆー遊びっスか?」
「フルーツバスケット?」
「人数足りてます?」
冷やかす彼らを男たちは鋭く睨む。
「桜木軍団……!」
「あ、スゲー。名前割れてる」
「今日は花道いねーけど」
「俺らも有名になったもんだなあ」
対する桜木軍団は緊張感を欠く軽やかさだ。
「俺らが桜木軍団なら、あんたらは堀田一味ってとこかな? ……あれ、あんたが番長だったっけか?」
水戸が言う。彼がうっすらと知る堀田は確か、一団の頭目ではなくその腰巾着であった筈だ。言われた堀田は忌々しげに舌打ちをひとつすると、周囲の男たちに視線を投げ、
「つまんねえ邪魔が入った」
と言った。この手の台詞は去り際に吐くものだとよく知る軍団はそれ以上無駄に挑発することなく、身を翻す男たちの背中を見送った。
「今日のところは命拾いしたな、宮城」
駄目押しの捨て台詞のつまらなさに水戸は視線を逸らし宮城の方を見る。彼は最後までポケットに手を突っ込んだままの不遜な様子で、水戸はこの小柄な男の肝の据わりようにすっかり感心してしまった。
「悪い、迷惑かけたな」
この短い時間に宮城は水戸を軍団のリーダーと判断したらしく、ひとりひとりの顔をしっかりと見た後、水戸の顔に視線を留めて例の爽やかな声で礼を述べた。
「いや、余計なお世話でなければよかったよ」
「助かった。退院したばっかで早速かよって思ってたんだ」
そう言って、宮城は木陰に置いていたシャツを拾い上げて羽織る。もう汗はすっかりひいている。下半分のボタンを適当に留め、彼は続いて制服を手に取った。短ランはそう身長の高くない彼のシルエットを綺麗に見せる。ピアスといい、シャツに合わせるタンクトップの色といい、彼はなかなかの洒落者らしい。
「おにーさん、湘北なんだ。二年?」
学生服のボタンに刻印された校章を見て野間が言う。宮城は頷いた。
「ああ。お前らも湘北か?」
高宮が答える。
「そう。ピカピカの一年生」
「え、嘘。年下かよ」
信じらんねー、と彼が言う。軍団は笑って、おい、俺たち老けてるってよ、と返した。宮城も眉を上げて笑った。そういう顔をすると神経質そうな顔がぐっとこどもっぽくなる。
「センパイ、ドリブル上手っスね」
「センパイは止めろよ」
「部活とかやんねーの? 俺ら、友達バスケ部なんだけど」
「…………、」
大楠の言葉に宮城は目線を少しずらす。目を伏せたからか、たったそれだけの仕草で笑顔の種類が変わって見え、それがこの男の中にある複雑な層を感じさせた。その目が再び軍団を見上げる。瞼が薄いのか、眼球の丸みがよく分かる特徴的な目だ。
「……俺もバスケ部なんだ」
「あら、そうなの?」
「そっか、入院してたんだもんな」
「いや……。俺、宮城リョータってんだ」
眉を上げ、笑顔らしい笑顔を作って宮城が名乗り、そして言った。
「おめーらの名前も教えてくれよ」
