Fly girl, in the sky 第十一話 - 2/4

「なにっ? 宮城が来てるのか?」
 放課後。更衣室。着替え中の雑談という、本来ならば気安い空気の中で角田がいささか緊張気味に話した言葉を、木暮は聞き返した。
「いや……、見たのは学校じゃないみたいで、来てるかは分からないんですけど」
「そうか。でも退院したんだな、あいつ! 思ったより早かったな‼」
 喜色のじわじわと滲む声に、話を聞いていた桑田が問う。
「ああ、入院してたっていうもうひとりの二年生ですか?」
「ああ」
 木暮の代わりに角田が答える。木暮は感じ入った様子で、
「そうか、宮城……、予選に間に合ったんだな、よかった」
 と頷いた。その声の様子に桑田は更に問う。
「その宮城さんて人、上手いんですか? 木暮さん」
 今度の問いには木暮がきちんと答えた。
「自分の目で確かめろ、桑田。お前と同じガードだ」
 と、そこに部室のドアが開く音が聞こえてくる。
「チュース‼」
 続いた声はふたつ。カーテンをくぐり更衣室に入ってきたのは潮崎と安田の二年生ふたりだった。
「木暮さん‼」
 彼らは慌てた様子で木暮を呼び、
「木暮さん、あいつが、宮城が来るらしいですよ」
 と言った。聞いたよ、と木暮は頷きロッカーを閉じる。潮崎は彼の穏やかな語尾に被せるようにして続ける。
「それがあいつ、昨日また絡まれてたみたいなんです、学校じゃなくて公園だったらしいけど、でもきっとあいつらですよ」
「ええっ?」驚いたのは木暮ではなく角田だった。「予選前のこの時期に……。また何か問題起こさなきゃいいけど」
 深刻な声を脇に、安田が心配を声に滲ませて木暮に進言する。
「先生に相談した方がよくないですか?」
 木暮は頷いた。
「そうだな。鈴木先生と安西先生に伝えておくよ。赤木にも、俺の方から言っておく」
「お願いします」
 着替えを終え更衣室を出る木暮の背中に二年生たちは声を投げた。後ろ姿を見送って、桑田が緊張の面持ちで問う。
「な、何かやったんすか? 宮城さんて。……もしかして、コワイ人なんすか……?」
 同じ頃、校舎裏では宮城がひとりバスケットシューズに紐を通していた。コンクリートに座り込む彼の背に陽が当たり、俯いた顔に濃い陰を落としている。よく手入れされた靴はコンバース。白黒赤のがっしりとしたフォルムの中心に尖る星を見下ろす彼の指が、穴に通した紐をつまみ損ねる。――と、その指が再び紐を取る前に、彼に呼び掛ける者があった。
「宮城」
 呼ばれた宮城が顔を上げる。声の主はやはり、堀田であった。彼の背後に昨日と同じ三人の男たちが控えている。こうなるだろうと薄々考えていたから人目につかない場所を選んだというのに、彼らはどうしてこう目ざとく自分を見つけるのだろうか? と宮城は思う。思うがそれを顔には出さない。
「やめてくださいよ……昨日も言ったけど、退院したばっかりなんだから」
「病院で心を入れかえたか、宮城‼ お前らしくもねーセリフだな、ビビってんのか⁉」
 彼らの言う〝お前らしい〟とは一体どういうことだろう? 後ろ手を組んで俯き堀田たちを見上げる宮城の姿に何を思ったのか、彼らは鋭い目を更に吊り上げ、言葉で宮城を抑え込む。
「昨日は余計な邪魔が入ったからな」
「ああ、昨日の四人組。あれ、うちの一年なんスね。リーダーは水戸っていったかな。俺よりよっぽど生意気そうじゃないっすか」
「ハハハ。心配すんな。あいつらはいずれやってやる」
「まずはお前だよ、宮城」
「いずれね……」
 吠える男たちを尻目に、宮城はポケットに手を隠し照準を堀田に定める。ひとりで行動することの多い彼が自然と身に着けた喧嘩の作法は、まず頭を叩くことだ。
「いずれっていつなんスかね? ジツは相手にされてないとか?」踏みしめた足元で小石がざりりと音を立て鳴く。「……あんたより水戸の方が上って気がしないでもないぜ、堀田君」
 そう言ってわざと挑発すれば、面白いくらい顔を真っ赤にして堀田が殴りかかってきた。が、ボールの速さに慣れている宮城にとって、彼のパンチは泣けるほど遅い。立つ風の音さえ緩慢だ。
 難なく避けて、相手の全身が見えるだけの距離を取る。このまま上手く躱して騒ぎ立て、現行犯で教師に捕まえてもらうのが、最も穏当な解決法だろう。すると、次の一撃の為に引いた堀田の右腕を、背後から誰かの手が掴んだ。
「三井君……」
 堀田の声は場に不似合いに丸く響く。振り返った彼の視線の先に、三井と呼ばれた長身の男が立っていた。
「元気そうじゃねーか、宮城。安心したぜ」
 宮城は敢えて黙り、彼の全身を視界に収めた。暑苦しい学ラン姿の男たちの中で、すらりと背の高い三井の姿は長髪でマスクをしていても涼しげで端正に見える。彼は堀田を押し退け宮城との距離を一歩詰めた。見るな、と無言で吐き出すような動作だ。宮城は喉から言葉をひねり出した。
「なんだ。あんたも退院していたのか、三井サン」
 三井が今度は見せつけるようにマスクを取る。見られること、見せること。彼にとっての明確な違い。
「これで安心して殴ってやれるぜ」
 通った鼻筋の下、笑顔を作った唇の中にぽっかりとあいた不自然な黒い穴。それはふたりの入院の原因となった殴り合いの喧嘩によるものだった。本来なら一方的な暴力沙汰となるところを宮城が強く抵抗した為に――或いは彼が三井たちと同様、教師たちから素行不良と見なされていた為に、在校生同士の喧嘩と決められてしまった、酷い暴力。
 その暴力の痕跡を、どうしてか三井は身体に刻むようにして見せつけた。そこには黒々とした穴と同じ、不気味なまでの怨嗟があった。
 ――彼は何を憎んでいるのか?
「彼はリョータの何が気に入らなかったんだろう? リョータも彼の何が引っ掛かったんだろう? 体育館の前ですれ違ったリョータが奴らの言いがかりを買ってしまったために、リョータは上級生たちから目を付けられてしまった、」
 当時その場に居合わせたという安田が発端の話を桑田に聞かせている。着替えを終えた潮崎が、続きの言葉を引き取った。
「それで、そのグループが宮城を屋上に呼び出してシメようとしたんだ。まあ、よく聞く話だろ。――六、七人に囲まれて宮城に勝ち目はなかった……。けど、勝ち目がないと悟った宮城は、他には目もくれず頭の三井って人だけを狙った。他の奴らにやられても三井だけは倒すって決めたんだ。宮城がボロボロにされた頃……三井って人はもう意識がなかったらしい。それでふたりとも入院さ……」
 言い終えた後の沈黙に、安田がロッカーを閉じる音が響く。彼は珍しい深刻なため息をついて、
「もしそれで、まだリョータが狙われてるなら大変だ」
 と言った。他の二年生たちとは違い、彼は部活やインターハイのことよりも、宮城リョータという個人の心配をしているようにみえる。
「仲がいいんですか? その、宮城センパイと」
 桑田が恐るおそる尋ねる。
「中学からの同級生なんだ。生意気だって皆言うし怖がる人もいるけど、でもそれは多分、リョータなりの虚勢なんだと思う。あいつ、見た目は派手だけど、繊細なところがあるから……」
 安田の言葉に、桑田は同級生のひとりを思い出した。派手な見た目と大胆な振る舞い、しかしどこか内向的で優しい少女。
 その彼女は今、流川と彩子の三人で校舎外から部室棟へと向かっていた。
「おめー何でさっきからついてくんだよ」
「行き先がいっしょだから」
「離れて歩けよ」
「……」
 それきり黙った流川から距離を取ろうと歩く花道を、流川越しに彩子が叱りつける。
「ちょっと、ケンカは止めなさいよね。道狭いんだから」
 花道としては狭いからこそ二列になるなりして離れて歩きたいのだが、どうしてか流川は変な意地を張って、そのせいで駐輪場沿いの狭い道を彩子、流川、花道の横並びで歩くことになっている。更に彩子に叱られて、彼女は隣の流川の肩をぐいと、彼女にしては軽く押した。が、鍛えている彼の体幹はびくともせず、反対に花道の身体がよろけて駐輪場の鉄柱に軽くぶつかる。
「いてっ」
「ホラ、言わんこっちゃない」
「ふぬーっ! ルカワこの野郎っ!」
 彩子は呆れながら流川と並んで角を曲がった。――と、
「あっ!」
「――……」
 三井と対峙していた宮城の耳に懐かしくも鮮やかな声が触れて、彼は詰めていた息をふっと緩めた。身体が――魂が導かれるように音の方を向く。顔を上げた彼の視界がぱっと開いて明るくなる。そこにいたのは彼の世界を厳しくもあたたかく照らす光の化身――、
「アヤちゃん!!! なにそいつはあっ⁉」
 そして、彼女の隣に寄り添うようにして立つひとりの男。恵まれた体躯に小づくりの頭を乗せた、鋭利な月のように美しい男……。宮城は対峙する三井のこともその取り巻きのことも忘れ、太陽を奪わんとする影に飛びついた。
「てめえこの野郎っ!!!」
 突然見知らぬ男に飛び掛かられた流川は、直前自分に食って掛かってきていた花道の身体を躱し、咄嗟に背中を突き飛ばした。自身もさっと身を翻し、見知らぬ男の上空からの攻撃を避ける。宮城はちょうど流川と花道の間に着地した。その向こうでは花道が植栽に突っ込んでいる。彼女の呻く声と宮城の叫ぶ声が重なる。
「てめー避けてんじゃねーーーっ‼」
「や、避けるだろ」
 持ち前の瞬発力で宮城の拳や蹴りを避けつつ首を傾げる流川だが、訳が分からないのは不良たちも同じこと。彼らは突然我を忘れて暴れ出した宮城の目を再び自分たちの方へ向けようと、ふたりの間に割り込んできた。
「あっ、バカッ」
 彩子が小さな声で言う。が、その声は植栽が枝を擦り合わせる音にかき消された。彩子の傍で花道が飛び上がっていた。
「何をするかキツネーーーッ‼」
 風を巻き上げて飛んだ花道の両足が、身を躱した流川の奥に立つ不良の背中に激突した。不良は顔から宮城の胸元に突っ込み、ふたりは駐輪場に停めてあったバイクを薙ぎ倒した。
「ふぬーーーっ! 避けてんじゃねールカワ‼」
「ヤダ」
 着地した彼女は長い髪を振り乱し次の攻撃を繰り出す。躊躇なく顔面を狙う右フック。当たったらひとたまりもないから、勿論これも流川は避ける。避ける度に花道のフラストレーションは溜まっていく。
「やめなさい桜木花道‼」
 今しがたの宮城と同じように、花道の目には流川しか映っていない。振り回した長い手足が不良たちを薙ぎ倒していくが、彼女はそれさえ気付いていないようだ。振り上げた右の拳が三井の鼻に当たる。
「ぶっ」
「三っちゃん‼ コラァこのアマ引っ込ん ‼」
 叫んだ堀田の顔面に手刀を入れ倒した花道が、彼の巨体を持ち上げ流川目掛けてぶん投げる。
「徳ちゃん! おいコラ何だあれ宮城⁈」
「知らねーよ俺に聞くなっ‼」
 これじゃまるで災害だ。痛みによって冷静さを取り戻した宮城が宙を舞う堀田の軌道を目で追う。彼の重い身体は流川を掠めることなく地面に落ちて派手な地響きを立てた。が、その大仰な攻撃はフェイクであったようで、彼女は宮城と同じく堀田の軌道を目で追っていた流川との距離を一足で詰め、彼の頭を両手で掴むと勝気に笑い、
「へへ、これで逃げらんねーだろ」
 と言って首を上げ髪を逆立てた。正に怒髪衝天、
 がしかし、その額が自分のそこに炸裂する前に、流川も彼女の頭を掴んで止める。最早地面に立っている者は花道と流川、離れた場所に彩子、という中で、ふたりは額を突き合わせる距離で頭を掴み睨み合っている。
「こっちの台詞だ、どあほう」
「あぁん? てめー髪が乱れんだろ、触んな」
 ひと気のなかった校舎裏に、これは何事か、といよいよ人が集まり始める。今ここに教師がきたら――それを当初宮城は望んでいたが――捕まるのは誰だろうか? 彼はざわめきの中に大人の姿がないことを確かめ、せめて彩子と自分だけでも逃げようと算段を立てる。すると、
「さ、桜木さん⁉」
 校舎方面の人波の奥から少女が数人駆け寄ってくる。彩子が振り返り、花道の代わりに彼女を呼んだ。
「晴子ちゃん!」
 ちょうどよかった! とあからさまにほっとした顔をして彩子が言う。晴子の背後に少女二人が遅れて追いつく。
「あのふたり止めてやってちょうだい」
「え? 止めるって、あたしどうすれば……?」
 晴子が細い指を口元に当て眉を下げる。その間にも顔を掴んで取っ組み合うふたりの後ろ脚が地面でじりじりと震え、踏んだ砂利を傷めつけている。彩子が答える。
「名前呼んで、部活行こうって言うだけでいいから!」
「えぇっ、」
「いーからいーから、さ、はやく!」
 危なくない距離で、と背中を押され、晴子は花道の視界の方に向かって立つ。両手を口の横に添えなるべく大きな声が出るようにして、彼女は息を吸い込んだ。
「桜木さーんっ! 部活行きましょう! それからえっと、ル、流川君も……!」
 恥ずかしさに声は尻すぼみになったが、肝心の部分は当人、少なくとも花道には届いたようだ。
「ハ、ハルコさん!」
 ようやく晴子の存在に気付いた花道がパッと顔を明るくして声の方を向く。柔らかい髪が流川の睫毛を掠めて、彼は目を見開いた。その身体が花道の方に傾く。花道の身体も後方へ傾く。彼女が身体の力を抜いた為だ。
「あっ⁈」
「――あ、」
 ずしん、と堀田が倒れたときと同じほどの地響きと共に、ふたりは地面に倒れ込んだ。
「だ、大丈夫⁈」
 舞い上がった砂埃を手で払いながら晴子はふたりに近付く。倒れた地面から桜木は無事を示すピースを掲げた。
「大丈夫です! このアイアンボディ・桜木、ちょっと転んだくらいではビクともしません! おい、こらどけよキツネ‼ 重いだろーが!」
 身体の上に覆い被さるようにして転んだ流川の頭を平手で叩き、花道は左肘を立てて頭を起こす。と、自分の頭の下に彼の右手が敷かれていることに彼女は気付いた。
「おめー、余計なことしやがって。手ぇ痛めたらどうするつもりだよ。ひねってねーか?」
「おめーのせいだろうが、どあほう」
 流川が上体を起こす。花道も起き上がり彼の手を取って検分した。握っても捻っても流川は平然としているから、恐らく異常はないだろう。すると、
「――おい、何かあったのか?」
 遠くから男性教諭らしい声が聞こえ、一同は顔を上げた。
「アンタたち! 行くわよ‼」
 真っ先に上がった彩子の声に、花道と晴子、そして宮城が背筋を伸ばす。流川だけは相変わらずの様子だったので、花道は握ったままの彼の手を引いて立ち上がり走り出した。流川は特に抵抗することもなく彼女に従った。
「ほら、リョータ! あんたも走って‼」
「う、うん。アヤちゃん……、」
「晴子ちゃん、藤井ちゃん松井ちゃんも‼」
「は、はいっ‼」
 さすが運動部、という身のこなしで走り去る彼女ら彼らの後について、晴子たち三人も――そうする必要はなかったが――走りだす。取り残された観衆たちの中心で不良たちは体勢を整えると、ほうほうのていでその場を去った。
「ちくしょう、何だったんだあいつら……」
「みっちゃん、大丈夫? 血ぃ止まった?」
 汚れた口元を袖で拭いながら三井が忌々しげに吐き捨てる。彼は堀田の問いには答えず、
「おい……、何なんだあの赤い髪は。今年入った一年か?」
 と周りの男たちに問うた。
「うん。一年七組、桜木花道。桜木軍団とかいう、変な集団の頭張ってる女だよ。あいつも確かバスケ部なんだ」
「……なんだと?」三井の身体がびくりと震える。「何で女がバスケ部にいんだよ?」
「さ、さあ。分かんないけど。それと、あのルカワって奴も確かバスケ部だ。何だ、バスケ部ばっかじゃねーかよ」
 取り巻きの言葉に、三井は苛立った様子で傍にあった室外機を蹴り上げる。
「許さんぞ、あいつら……。絶対許さねえ……」
 吐き出す声は形を保ったまま地面に落ち、石のように転がった。