Fly girl, in the sky 第十一話 - 4/4

 ゴールデンウィークの休みのほとんどを部活動に費やしていたバスケットボール部は、昨日・今日と部活を早めに切り上げることにしていた。退院してまだ日の浅い宮城も、居残り練習はせず帰宅の途につく。外に出ると、まだ空はうっすらと明るい。上を向いた鼻に、家々の雑多な生活の匂いを含んだ風が触れると、どこか懐かしい気持ちになって、彼は吸い込んだ息を小さく吐いた。
 花道も今日は居残り練習はせず大人しく帰路につく。帰り際、背中に流川の何やら重い視線を感じたが、彼女にだって予定というものがあるのだから仕方がない。この時間に帰れれば、学校駅そばの商店街にある総菜屋のコロッケを買って帰れるし、洗濯や繕い物だってできる。この年頃だと知らない者も多いのだろうが、生活を営むというのはとにかく大変なことなのだ。
 が、そんな多忙な彼女は今、目の前を歩く宮城リョータという男のことが気になっていた。復学して早々花道をよく分からない喧嘩に巻き込んだ上に、公衆の面前で何度も何度も怒鳴りつけて恥をかかせたこの男は、恐らくマネージャーである彩子を特別に好いている。そして彩子も何を血迷ったか、この男のことを憎からず思っている……のではないか? というのが、今日一日で花道が得た知見と立てた仮説である。普段彩子に大変世話になっている花道にとって、彼女が悪い男に捕まって悲しい思いをするのは看過できない。であるから、花道にはこの男が彩子にふさわしい人間なのか、確かめる必要があった。
「何だよ。ついてくんなよ、おめー」
「うるせー、誰がついていくか。方向が同じなだけだ」
 折角の話し掛けるチャンスを棒に振ってしまった彼女は、再び背中を向けた宮城の後を黙ってついて行く。宮城も相手にしないことに決めたのか、店や家の明かりに時折目を向けながらも無言で歩いてゆく。
 すると、商店街の通りを過ぎてバスケットコートのある公園の脇を歩いていた彼が、フェンスの向こうに何か見つけたのか、ふと足を止めた。
「……あの子、」
「あん?」
「おめーじゃねーよ」
 言葉に腹を立てながらも、その表情の真剣さに花道も視線を公園の中に向ける。フェンスと植栽の向こう、外灯の照らすベンチに、ひとりの少女が小さくなって座っていた。
 制服のスカートの裾を握り俯く彼女の細い指は、あまりにきつく握り締めている為に関節が白くなっている。遠目からも分かる彼女の不安に、花道はこれがただ事ではないと察知した。と、視線を感じたのか少女が顔を上げる。その目が宮城を捉える。少女は立ち上がり、唇を震わせた。「――……っ、」
 唇は言葉を生まない代わりに次の震えを生む。肩が震え指が震え、とうとう堪えきれなくなった少女はベンチに座り涙をこぼした。宮城と花道は公園の中へと向かった。
 少女は、昨日男たちに絡まれた宮城が逃がした、隣町にある女子高の生徒であった。不良から慌てて逃げたはいいが、宮城を置いてきてしまったことに罪の意識と恐怖を感じ、一夜明けて悩んだ末に、この公園へ戻ってきたのだという。
「ごめんなさい……」
 言い終えた少女の手に涙の粒が落ちる。粒は彼女の手の輪郭をすべり落ち、紺色のプリーツスカートに小さな染みをつくった。
「謝んないでいいよ。俺、どこも怪我してないし、あいつらもすぐいなくなったから、無事だったよ。――それより、突然変な奴らが出てきて怖かったよね?」
 少女の足元にしゃがみこみ、柔らかく微笑んで彼女の不安に寄り添ってみせる宮城の姿に、彼女の隣に座ってハンカチを差し出していた花道は目を瞠る。姿だけじゃない。彼はこんなにも穏やかに、人の心の弱さに手を添えることができるのか。
 少女はひとしきり涙を流し、ようやく落ち着きを取り戻すと、もう大丈夫です、と自分のハンカチで涙を拭って立ち上がった。少女の手に、クローバーの刺繍を施したハンカチが柔らかい皺をつくって収まっている。きっともう、その手に爪が食い込むようなことはないだろう。
「あたし昨日怖かったけど、今日の方がもっと怖かった。……何もできなくてごめんなさい」
「だから、言ったろ? 謝んないでよ。……今日こうやって会えてよかった。大丈夫だって伝えられたし」
「うん……」
 少女の肩が再び震えるのを花道が撫でさする。少女は微かに俯いた顔を意志の力でしっかりと上げて支え、
「ありがとう。あたしも、会えてよかった」
 と言った。
「しばらく前にここでバスケしてたよね? 昨日、久し振りに見掛けてあたし嬉しかった。……バスケ、頑張ってね」
 少女はそう続けて微笑み、花道に向かって頭を下げると、気丈な足取りで公園を去っていった。ふたりは外灯の下でその後ろ姿を見送った。
「…………」
「…………」
 ジジジ、と外灯の立てる微かな音がふたりの頭上に降り注ぎ静寂を際立てる。花道と宮城は顔を見合わせると、
「どうすんだよ」
「あれ、確実に誤解されたな、」
 と同じタイミングで口にした。
「誤解されたな、じゃねーよ! そこは否定しろよ⁈」
「どう考えたって無理だろ⁉ どのタイミングで『ところでこいつは俺の恋人でも何でもなくただの後輩』って紹介すんだよ⁈ ああん⁉」
「あたしにキレんな‼」
「キレるわ‼ 俺はアヤちゃん一筋なんだからな! おめーみてーな女、願い下げだ‼」
「あたしだってゴメンだっつーの‼ って、やっぱおめーアヤコさん狙いか‼」
「狙いとかそういう軽々しい言い方すんじゃねー! 俺はアヤちゃん命なの‼」
「フン、ンなこと言ったって、アヤコさんは高嶺の花だからな。おめーなんかにゃもったいねーっつーの」
「なっ…………、」
 ライトの切り抜く夜の下でつかみ合い罵り合っていたふたりだったが、花道の言葉に宮城は酷く打ちのめされたようで、彼は肩を震わせ黙り込むと、静かにしずかに涙をこぼした。
「…………ふぬっ⁈」
 同じベンチに並んで座るのはどうにも気まずくて、ふたりは自然と距離を取れるブランコに並んで座る。足を遊ばせれば部品が軋んで沈黙を埋めてくれるのもいい。宮城はチェーンを小脇に挟んで揺らしながら、親友にさえ聞かせたことのない胸のうちを花道に話し吐き出した。
「もうフラれたようなもんさ……。彼女の眼中には俺なんてないのさ。全然相手にしてくれないんだ」
「…………」
 そうか? と花道は思ったが、宮城にとってはそうらしいので大人しく続きを待つ。
「彼女のことを忘れられるなら、他の女と付き合おうと考えたことだってあるさ。でも、無理だろう? 誰もアヤちゃんの代わりになんてなれないんだから……」
 そう語る宮城の声は、さっき少女に語り掛けたときと同じように柔らかく、脆くさえ感じられる。花道は、こいつはあたしが思っていたほどイヤなヤツじゃないのかもしれん、と思った。
「俺は中学んときバスケ部だったが、高校でも続けるかどうか迷ってたんだ、最初な。それで練習を見にいった体育館で……」
 宮城がほう、と息を吐く。燻ぶる心の熱を留め置けなくて思わず漏れた、その狂おしいまでの切なさは、花道にも憶えがある。握り締めた手の中でチェーンが軋む。
「初めて見たんだ、彼女を。……プレイじゃなくてマネジメントがしたい、って言う彼女はさ、誰よりも真っ直ぐバスケを愛してて。俺、あんなにてらいなく何かを愛せる人がいるんだ、いいや、愛してもいいんだ、って思った。それが眩しくて、気付いたらもう好きになってた……。速攻で入部した。俺がチームを強くして、彼女と一緒に試合に勝って……それで彼女が笑ってくれれば最高さ」
「…………」
 そう言って背中を丸めた宮城は、先とは違う自嘲のため息をついてから舌打ちをし、
「おめーなんかにつまんねー話を……」
 と言った。花道は音もなく涙を流すと、
「ワカル」
 と言った。

 翌日。放課後。既にあらかたの部員が集合した後の体育館に、最後のふたりが揃って姿を現した。昨日の部活で取っ組み合い罵り合いをしていた花道と宮城のふたりだ。大小それぞれの大きさで仁王立ちした彼らはその姿を部員一同に見せつけた後、
「今日もやるぜ花道‼」
「オウ、リョータ君‼」
 と肩を組んだ。ふたりは分かり合ったのだった。
 こうして、湘北高校バスケットボール部に束の間の平和が訪れた。
〝束の間の平和〟――、
 ざわめきに揺れる体育館に、新たな嵐が音もなく忍び寄っていた。